町は横手盆地の中心にあり、広い水田を有する横手盆地は、秋田県下第一の穀倉地帯として知られている。
そして、また、横手は、山と川のある町でもあった。戦前、横手で教員生活を送った石坂洋次郎《いしざかようじろう》が、戦後『朝日新聞』に連載した小説『山と川のある町』は、横手が舞台となっている。
雄物《おもの》川の支流、横手川によって二分される町だった。
この、静かな北の城下町を震撼《しんかん》させる事件は、『藤森《ふじもり》アパート』の家主にかかってきた一本の電話から始まった。
貸家式の『藤森アパート』は、古い平屋だった。横手駅から、線路沿いに、北へ徒歩で十五分。奥羽本線と横手川に挟まれた、田圃《たんぼ》の中のアパートである。
六畳一間に、台所、便所、風呂付きの部屋が川を背にして四つ並んでいるけれど、あまりにも朽《く》ちているので、間借人は一人しかいなかった。
一番奥の部屋に入っている、その唯一の間借人は、千葉和郎《ちばかずお》という名前だった。
「すみませんが、千葉さんを呼んでくれませんか」
男の声の電話が、家主の家にかかってきたのは、夜、七時近くである。
家主夫婦は、ともに七十過ぎの老人だった。夫婦はアパートから二、三分の所に立つ、これまた相当古い一軒家に住んでいた。
電話を受けた家主は、暗い畦道《あぜみち》を歩いて、アパートへ行った。
「千葉さん、電話ですよ」
家主はドア越しに声をかけた。
部屋の明かりはついているのに、応答がなかった。
「千葉さん、留守ですか」
家主はノブに手をかけた。ドアにはかぎがかかっていない。
古いドアは、ぎしぎしと音を立てて、外側に開いた。
「あれ?」
家主は、一歩、三和土《たたき》へ入ったところで、足をとめた。千葉が窓際に倒れている。
その千葉に向かって、
「どうしなすった?」
声をかけたが、異常事態が発生していることは、本能的に分かった。
千葉は微動だにしないのである。しかも、部屋の中に充満しているこの異臭は何か。
(死んでる?)
老人の口元が震えた。
田圃の向こうから、列車の轟音が聞こえてきた。秋田行きのL特急�つばさ13号�が通過する時間だった。
家主は、列車の音が遠のくのを待ってドアを締めたが、どのようにしてその場を離れたのか、確かな記憶を持たなかった。
「婆さん、えらいこった!」
家主は家に引き返すと、ともかく受話器を取った。
「もしもし!」
千葉さんが、と、言いかけて、家主は受話器を置いていた。呼び出しを頼んできた男の電話は、いつの間にか切れていたのである。
なぜか分からないが、こっちの異変を察して、それで電話が切られていたような、そんな感じでもあった。
老人は気を取り直し、改めて一一○番のダイヤルを回した。