二台のパトカーと、一台のジープが、枯れ田の中の国道13号線を突っ走って、『藤森アパート』に到着したのは、午後七時半頃である。
パトカーを川の近くにとめ、畦道を通って古いアパートに一歩足を踏み入れたとき、
「何だ、これは」
刑事課長が思わず吐き捨てたのは、室内が、アパートの外観にも増して、殺風景だったせいである。
生活の匂いといったものが、まったく感じられない部屋だった。食べ残しの納豆などが載っている折り畳み式の小さい食卓と、マイクロテレビがあるのみで、家財道具は何一つ見当たらない。
壁にかかっている濃紺のスーツは新品で、一応の仕立てだが、ネームの縫い取りはなかった。
押し入れの寝具も一組だけで、ろくな着替えもなければ、身元を証明するようなものは、何も出てこない。
「所持金は、二十八万九千二百円です」
と、報告したのは、押し入れから発見されたアタッシュケースをチェックしていた刑事である。アタッシュケースの中には、その現金と、半月前の週刊誌が一冊入っていただけだ。
「このホトケさん、どういう人間なんだ?」
刑事課長は、もう一度首をひねった。
だが、何もない部屋であるだけに、現場検証は、てきぱきと進んだ。
そして、床に転がっていたスコッチのボトルから、青酸反応が出た。
死因は、シアン化合物による服毒死。遺体は一部腐敗しており、死後数日を経過していると見られたが、詳しい死亡推定時刻は、司法解剖の結果を待たなければならなかった。
しかし、事件《やま》が殺人《ころし》であることは、この場で断定された。
殺人と断定した根拠は、スコッチのボトルとか、電灯のスイッチなどの指紋が、きれいにふき取られていたためである。
たとえば、これが自殺であったとしたら、青酸化合物が混入されたスコッチの、ボトルに、千葉の指紋が遺留されていなければ不自然だ。
指紋が消されている事実は、千葉の死後、第三者が室内に存在したことを意味している。その影の人物、イコール犯人が、自分の指紋と同時に、千葉の指紋も消して行った、ということになろう。
嘱託医と鑑識課員が、現場で慌ただしい動きを見せている頃、家主は、アパートから離れた自宅で、刑事の事情聴取に応じていた。
細かい経緯を家主に尋ねたのは、ベテランと若手、二人の刑事だった。
ベテランは横手北署刑事課捜査係主任の山岡《やまおか》部長刑事、四十七歳であり、山岡とコンビを組む原《はら》は二十九歳、今年四月の異動で私服になったばかりの、文字どおりの新人だ。
いかにも苦労人ふうな山岡が、気さくに話を聞き出し、横に控える原が、警察手帳に要点を書きとめるという、いつもながらの態勢だが、しかし、家主は、ただ一人の間借人について、詳しいことを承知していなかった。
千葉は、十一月二十一日の入居だったのである。まだ十日しか経っていない。
しかも、賃貸契約は、一ヵ月の約束だったという。
室内が、殺風景にがらんとしていたのは、短期入居のためか。
「千葉さんは、秋田の人間ですか」
「いいえ。東京の人ですよ」
「東京の人間が、何の目的で、一ヵ月だけ部屋を借りたのですかな」
「さあ、そんなことまでは聞いていません」
家主の返答は要領を得なかった。千葉の職業とか年齢もはっきりしなかったし、賃貸契約書を見せて欲しいと頼むと、
「すべて、松葉《まつば》不動産にお任せしてあるでな」
契約書は手元にない、と、家主は言った。家主が一任しているのは、バスターミナルの裏手にある、一間間口の小さな不動産屋だった。
山岡部長刑事は質問を変えた。
「千葉さんは、二十一日に越してきたと言いましたね。大家さんが、千葉さんを、最後に見たのはいつでしたか」
「最後も何も、会ったのは、入居のとき一度だけです」
「じゃ、呼び出し電話がかかってきたのも、今夜が初めてですか」
「ああ、かかってきたこともなければ、千葉さんが借りにきたこともない」
「しかし、アパートにじっと閉じ込もっていたわけではないでしょう」
「田圃《たんぼ》の向こうに下りて、川端から町へ出て行くと、こっちからはよく見えんでなあ」
家主は困ったような顔をした。
千葉の部屋以外はすべて空室だから、(家主がこんな状態では)目撃者の線から千葉の生存日をチェックするのは難しい。指紋を消していった訪問者も、簡単には浮かんでこないだろう。
「でも、夜は、毎晩帰っていたはずですよ」
と、家主は言った。
裏付けは、アパートの部屋に明かりがついていたことだった。
しかし、それは、千葉の生存を意味しない。現に今夜だって、(千葉は何日か前に他界しているのに)部屋の電灯はついていたではないか。
千葉の死後、電灯は夜も昼もつけっ放しだったのに違いない。
家主に対する事情聴取は、そこまでだった。
山岡部長刑事と原刑事は、一足先に現場を離れ、バスターミナル裏の『松葉不動産』へ向かった。
「この男、何の目的で、横手にアパートを借りたのだろう? どうもよく分からんホトケだな」
ベテラン部長刑事は、刑事課長と同じようなつぶやきを漏らしていた。