「それは、前払いだったのですか」
「そうです。前金だし、一ヵ月だけの約束なので、敷金も礼金もなし。手数料は、これは家主さんのほうからもらいました」
「賃貸契約書はどうなっていますか」
「いやあ、それですがね。一ヵ月だけのことでしょ。正式な文書は作っていないのですよ」
文字どおり個人経営の、小さい不動産屋は頭をかいた。
「自分で扱った物件なのに、何ですが、藤森さんとこは、どうしようもなく古いアパートでしょ。いくら田舎《いなか》だって、いまどきあんなアパートを借りてくれる人はいません」
「借り手がついただけで、御《おん》の字ってわけかね」
「夜分に刑事さんが見えるなんて、何かトラブルでもあったのですか」
「あの男、殺されたよ」
「殺された?」
「あの男が、横手へやってきたのはなぜか、目的を聞いていると、ありがたいのですがな」
「何せ、部屋を借りてもらう折衝だけで精一杯でして、込み入った話はしていません」
と、『松葉不動産』の主人は、山岡部長刑事と原刑事にこたえたが、千葉に関して、家主よりは、少しばかり詳しかった。
主人は机の引き出しからノートを取り出して、二人の刑事の前に置いた。
千葉和郎 三十五歳 東京都|足立《あだち》区|西新井《にしあらい》六ノ七八
「はっきり聞いたわけではありませんが、千葉さんはスーパーの店員で、マーケティングリサーチのために秋田へ派遣されてきた、というようなことを口にしていたと思います」
「リサーチですか」
若い原刑事はうなずいて、住所と一緒にその�目的�をメモしたが、
「違うな」
ベテラン部長刑事のほうは、はっきり声に出して顔を振った。どのていどの規模のスーパーかは知らないが、電話もないぼろアパートを借りてのマーケティングリサーチもないだろう。
横手グランドホテル、横手ステーションホテル、横手セントラルホテル、よこてプラザホテルなど、横手にも二十軒を越えるホテル、旅館がある。
一ヵ月ていどの滞在なら、旅館かホテルと契約するのが自然だろう。それに、死者は名刺一枚持っていなかったのだ。
「アパートのほうが安上がりには違いないが、どうも腑《ふ》に落ちないね」
山岡が両腕を組むと、
「そう言えば、千葉さんは陰気でしたね。妙におどおどしたところのある、暗い感じの人でした」
不動産屋の主人は、十日前の入居を思い起こして言った。