山岡、原両刑事が本署へ帰るとすぐに東京へ電話がかけられ、警視庁捜査共助課へ、千葉和郎の身元確認が要請された。
秋田県警捜査一課の応援で、署長を本部長とする捜査本部が設置されたのは、それから間もなくである。設置と同時に、千葉の前科をチェックするため、県警本部を経由して、千葉の指紋が警察庁の指紋センターへオンラインで送られた。
そして、三階大講堂の入口には、『藤森アパート男性毒殺事件捜査本部』と大書された張り紙が下がったけれど、この夜は、簡単な打ち合わせだけで切り上げた。
本格的な捜査が開始されたのは、翌日になってからである。
翌日は、もう師走《しわす》だった。
十二月一日、金曜日。
師走と聞いただけで、市役所近くの朝市などの動きも何となく慌ただしい感じになり、横手盆地を吹いてくる北風も、急に寒さを増したようだ。快晴だけに、盆地の冷え込みも厳しい。
県警捜査一課の応援が、秋田市から到着するのを待って、第一回捜査会議が開かれたのは、午前十時である。
最初に、遺体の発見された『藤森アパート』が凶行現場である旨の状況説明があり、次いで、司法解剖の結果が報告された。
死因は、行政検視どおり、シアン化合物による服毒死だった。一般に青酸と呼ばれているのが、シアン化合物である。
青酸の致死量は、もちろん個人差があるけれど、青酸カリは○・一〜○・三グラム、青酸ソーダは○・○五グラム。死亡までの時間は五分以内とされている。
ところで、問題の死亡推定時刻には、幅があった。死後、数日を経過しているためだった。
十一月二十五日(土)午前〜十一月二十六日(日)午前
刑事課長は、太い文字を黒板に書き出した。
一方、胃に残っていた米飯、納豆などは食後一、二時間の経過と判明し、部屋の食卓には、食べかけの納豆と、インスタントみそ汁が置かれていたわけである。
「食事の内容から推して、朝食後一〜二時間の間に殺害されたものと考えられます」
刑事課長は説明をつづけ、
「しかし、朝食後にしては、部屋の電灯のついていたことが解《げ》せません」
自らのことばに疑問を投げたが、
「電灯は犯人《ほし》の工作じゃないでしょうか」
と、意見を述べたのは、県警から来た警部補だった。
夜、部屋の明かりがついていれば、間借人は部屋に帰っていると思われるだろう。『藤森アパート』の、家主が惑《まど》わされたようにである。
周囲に不審を抱《いだ》かれなければ、死体発見は遅れる道理だ。発覚までに日が経てば、それだけ、死亡推定時刻はあいまいになってしまう。
昨夜の男の呼び出し電話がなければ、遺体発見は、まだまだ先へ延びていたはずである。
「電話の男も問題だね。男は千葉を呼んでおきながら、なぜ、家主の返事を待たずに電話を切ったのだろう?」
正面にどっかと腰を下ろした小太りの署長がつぶやいたとき、東京から電話が入った。
警視庁捜査共助課は、朝一番で、千葉和郎の身元確認に着手してくれたのである。
電話は、署長が自ら受けた。
「これはどうも。早くから恐れ入ります」
気負い込んで電話を取った署長の横顔が、次第に曇《くも》ってくるのを、そこにいる捜査員全員が凝視《ぎようし》した。
署長は受話器を握り締め、
「そうですか。なるほど。お手数をかけました」
いちいちうなずいていたが、やがて礼を言って電話を切り、
「こいつは面倒なことになった」
全員に視線を返した。
東京・足立の該当住所に、「千葉和郎」は実在しなかったのである。
「こうなると、一縷《いちる》の望みは、ホトケの指紋ですか」
「指紋センターが、何と言ってくるか」
捜査の出発は、死者の身元確認に始まる。
それが、最初の段階で崩れたとあっては、会議場が重い空気に包まれるのも、当然だろう。
しかし、「千葉」と関係ある人間が、少なくとも一人浮かんでいることは事実だ。すなわち、呼び出し電話をかけてきた男だ。途中で電話を切ってしまった男は、もう一度連絡してくるだろうか。
「千葉」は身長一メートル六十七。推定体重は五十五キロだから、やせ型だ。
体に手術跡などの特徴はないが、歯に治療痕があった。上歯の左右きゅう歯に金合金がかぶせてあったほか、前歯の右上側切歯が欠けており、これを前歯三本で支える四本ブリッジにし、欠損部が義歯になっていたのである。
「そいつは立派な手がかりだ。でも、どこの町の歯医者を聞き込めばいいんだい?」
山岡部長刑事は、刑事課長の説明を聞いて、ぼそっと原刑事に話しかけた。「千葉」は、どうやら横手との関連は薄そうだ。
その上、不動産屋に告げた東京の住所に存在しないとあっては、歯の治療痕だけでは雲をつかむような話となってこよう。
「日本中の歯科医院を一軒ずつ回るってわけにはいかないぜ」
と、山岡はつづけたが、ベテラン部長刑事の危惧《きぐ》は、間もなく現実のものとなった。
捜査会議は次の段階へ進み、刑事たちの聞き込み分担などが検討されているとき、東京の警察庁指紋センターから回答が届いた。結果は、死者の指紋に「前科、前歴なし」だった。
借り手もいない朽ちたアパートを一ヵ月だけ借りて、出入りも気付かれないよう、人目を避けて暮らしていた男。
入居以来、わずか十日間とはいえ、自分を隠した日常であるなら、背後に犯罪の影を見るのは、刑事としては当然のことだろう。
そして、事実犯罪の影を背負っているのなら、「千葉」が前科《まえ》持ちである可能性も強くなってこよう。
しかし、「千葉」に前科はなかった。
「この男は、何の目的で、横手へ来たんだ?」
捜査本部長である署長が、捜査員のだれもが抱いている疑問を繰り返した。
「まさか、殺されるために、人目に立たないアパートに身を潜《ひそ》めていたわけではあるまい」
入居が十一月二十一日で、毒殺されたのが十一月二十五日ないし二十六日。「千葉」は、少なくとも四、五日間、横手で生存していたわけである。
その四、五日間、「千葉」は横手川に二分される、人口四万五千の城下町でどのような行動をとっていたのか。あるいは、何の動きも見せていなかったのか。
「突破口はこれだね。これを重点聞き込みとする」
小太りの署長は立ち上がった。それが、(届けが出ている家出人捜査願いのチェックとともに)最初の捜査会議における主要課題となった。しかし、突破口は、当然なことに、もう一つあった。問題の歯の治療痕である。
署長は刑事課長と簡単な打ち合わせをして、山岡を呼んだ。
要《い》らぬことをつぶやいたせいでもあるまいが、嫌なお鉢が、山岡、原コンビに回ってきた。
刑事課長から治療痕のデータと歯形を手渡されたとき、
「どこから手をつけるかな」
山岡が、思わず渋い顔になると、
「必要とあらば、部長刑事《ちようさん》が直接東京へでも、どこへでも行ってくれ。家出人捜索願いのチェックと違って、これは他府県警に要請するわけにもいくまい」
と、署長が口を添えた。
東京へでも、どこへでも行ってくれ。その一言がヒントになった。