歯科医は迷惑そうだった。
たまたま、土曜日であるのがいけなかった。診療は、十一時半までなのである。
「カルテとレントゲン写真を照合するのには時間がかかります。明日の日曜日なら、ご協力します。恐縮ですが、月曜日の昼休みにでも、出直していただけませんか」
歯科医は受付のカウンター越しに言った。六十歳ぐらいの、小柄な歯科医だった。
歯科医が言うのも、もっともだ。
そうしている間にも、何人かの患者が入ってきて、診療券を受付に置いた。
診療を中断させるわけにはいかないが、ことは殺人事件なのである。ベテラン部長刑事は夜汽車で駆けつけたことを訴え、
「せめて、持参した歯形だけでも見ていただけないでしょうか」
と、粘った。
「先生が治療された歯形なら、あるていど見当がつくのではありませんか」
「そうはいきません。患者の数も多いですし、カルテと照合しなければ、正確なおこたえはできません。歯形は、人間の顔とは違いますからね。一目で、だれのものか決めつけることはできません」
「顔ならあります」
原刑事が、横から口を挟んだ。原は口走ると同時に、背広の内ポケットからそれを取り出していた。
死者の顔写真だ。
毒殺後何日かが経過しており、両目を閉じているので、生前とは、多少印象が違うだろう。しかし、「千葉」がここに通院していたのなら、医師には分かるはずだ。
原が、祈るような気持ちで、死者の顔写真を差し出すと、
「これは」
歯科医のまなざしが変わり、声が大きくなった。
刑事の粘り勝ちというか、案ずるより産むは易《やす》しだった。夜行で上京した努力は、最初の歯科医院で報われたのである。
幸いなのは、歯科医は、両目を閉じている顔を見慣れていることだった。そう、治療を受けるときの患者は、例外なく目を瞑《つぶ》っているものだ。
「この方が、秋田で殺されたのですか」
歯科医は、一瞬の中に、死者を特定していた。歯科医は背後の引き出しから、カルテを抜き出した。
白井保雄《しらいやすお》 三十五歳 神奈川県|大和《やまと》市|深見《ふかみ》二十七『和泉《いずみ》マンション』四十五号
神奈川県の人間が、なぜ、このような東京の外《はず》れの歯科医院に通っていたのか。
「白井さんは、ホクエツの社員なのですよ」
「ホクエツ、と言いますと?」
「道路の向こう側に、大きい倉庫があるでしょう。あれが、ホクエツの東京営業所です」
初老の歯科医は事務的な口調で言い、カルテを引き出しへ戻した。
山岡部長刑事と原刑事は、礼を言って歯科医を出ると、舗道《ほどう》を横切った。
大きい倉庫の横にある小さい二階建てが、株式会社『ホクエツ』東京営業所の事務所だった。
二人の刑事は、所長に面会を求めた。
その結果、「千葉和郎」と名乗って横手へ現われた男の身元が、改めて確認された。
「白井君は殺されたのですか。どうして、秋田県のアパートなど借りていたのでしょう?」
所長は、事態のすべてが信じられないという顔をした。
所長は白井保雄の行動に詳しくなかった。白井は東京営業所の人間ではなかった。
二人の刑事は、三十分ほどで聞き込みを切り上げ、『ホクエツ』東京営業所を出た。