電話で問い合わせたところ、土曜日なので、執務は正午までと分かった。そこで横手の刑事の到着を待たずに、地元の刑事が出かけたわけである。
『ホクエツ』本社は、横浜市内の中区|真砂《まさご》町、JR関内《かんない》駅から徒歩数分の場所だった。
オフィス街ではあるが、一ブロック過ぎると、高級クラブが並んでいるといったような、通りだ。
生命保険会社とか、大手旅行社などが入っている雑居ビルの、二階と三階が『ホクエツ』の本社になっていた。
刑事がエレベーターで三階に上がると、白井保雄の、直接の上司に当たる経理課長が出迎えた。
「白井君が殺された話は、やはり本当なのですね」
課長は眼鏡《めがね》をかけていた。神経質そうな横顔が、緊張している。
「東京営業所から、秋田の刑事さんが立ち寄られたという連絡が入りましたので、常務が、横手の捜査本部へ電話をかけたところです」
課長は刑事を応接間に案内し、何とも信じられないことだ、と、繰り返した。
刑事は、白井の経歴から尋ねた。
白井は滋賀県の出身。実家は大津《おおつ》市|秋葉台《あきばだい》で酒店を経営しており、白井は次男だった。
京都の私大の経済学部に学び、卒業と同時に『ホクエツ』に入社、京都営業所に配属されたが、二年後に、本人の希望もあって、横浜本社へ転勤。以後、ずっと経理課に所属し、主任に登用されたのが四年前、という話だった。
四年前から居住する大和市のマンションは賃貸であり、白井は独《ひと》り暮らし。
「結婚願望は強かったようですが、どういうわけか縁がなくて、三十五歳まで独身でした」
と、課長は言った。
「横手の捜査本部のお話では、白井君が田圃《たんぼ》の中の古いアパートを借りたのは、先月の二十一日ということですね」
「ええ、一ヵ月の契約と聞いています」
「白井君は、やはり逃げたのですね」
「逃げた?」
「しかし、なぜ殺されなければならなかったのか、その辺りが、さっぱり見当つきません」
経理課長が口|籠《ご》もったとき、ドアが軽くノックされて、でっぷりと太った五十代の男が入ってきた。
横手北署の捜査本部へ電話をかけたという、常務だった。
常務は丁重に一礼して、ソファに腰を下ろした。
「白井のことで、実は私のほうから、警察へご相談に上がろうと、考えていたところでした」
「家出人の捜索願いですか」
「いいえ、業務上横領の疑いです」
「会社の金を持ち逃げしたというのですか」
「このことは、社内でも一部の人間しか承知していません。私ども幹部は手分けして白井の行方を追ってきました。対外的な信用問題もありますので、できるなら、内々に解決したかったのですが」
失跡以来十二日が過ぎても、何の手がかりもなし。�社内捜査�が行き詰まった矢先に、秋田から届いた意外な結末だった。
「白井君は、いまも言いましたように、大津生まれで、京都の大学を出た男です。東北には何の関係もないはずです。それも、横手の目立たないアパートで、六日か七日前に、毒殺されていたというのでしょう」
経理課長の緊張は、常務が同席したことで、更に高まっていた。経理主任の横領は、当然、経理課長の責任問題となってこよう。
「アパートからは、三十万円足らずの現金が発見されています」
刑事が警察手帳を確認すると、
「本当に、それしか見つからなかったのですか」
経理課長は両掌を握り締めた。
「経理に入金されるはずで入らなかった売上げは一億四千万円ですよ」
「一億四千万?」
大金だ。
東北の殺人《ころし》は、一億四千万円をめぐって、ということになるのか。
「会社の信用問題もあるでしょうが、すぐに届けてくるべきでしたね」
刑事は、不快感を表に出した。
「会社の人が、白井さん、いえ白井の姿を最後に見たのは、何日ですか」
「十一月十八日です。土曜日でしたので、今日と同じように、勤務は昼まででした」
「その退社時間を最後として、白井は、社員の前から姿を消してしまったというのですね」
「マンションの管理人は、十八日から帰っていないようだと言ってました」
�社内捜査�の結果でも、『和泉マンション』四十五号室の新聞は、十八日の夕刊以降がそのまま置き去りになっていたという。
「和泉マンションへ出向いたのは、いつですか」
「二十日、月曜日の午後です。白井は無断欠勤をしましたので、自宅へ電話をかけたが返事がない。そこで、私が直接訪ねました」
白井が住んでいた大和は、横浜駅から、相鉄《そうてつ》で三十分足らずの距離である。『和泉マンション』は、大和駅から徒歩にして五分ほどだという。
「こちらの会社では、社員が一日無断欠勤しただけで、幹部がその自宅を訪ねるのですか」
「毎月二十日は、経理課員にとって、もっとも重要な決済日です」
経理課長がこたえ、常務がつづけた。
「白井は主任として、首都圏にある三つの営業所を統轄《とうかつ》していました」
二十日までに入金されているはずの、首都圏三つの営業所の売上げ金が、一億四千万円だった。
一億四千万円が未納で、担当の白井は電話をかけても応答なし。
「そういうことですか」
刑事はうなずいた。
こうした事情なら、経理課長が顔色を変えて大和へ飛んで行ったのも当然だ。
「白井は、一億四千万円とともに、蒸発していたってわけです」
この十二日間、大津の実家、学生時代を過ごした京都など、八方手を尽くしたが、白井の行方は杳《よう》として知れなかった。
「それも道理です。東北の小都市に、千葉と名乗って隠れていたなんて、夢にも思いませんでした」
経理課長は繰り返した。
「共犯者に、思い当たる人間はいませんか」
「私どもなりにチェックしてみましたが、社内とか、取引き先などからは、だれも浮かんできません」
「すると、影の共犯者は、プライベートな交遊関係の中に、潜んでいることになりますか」
「それが、さっぱりです。大津の実家とか、高校時代のクラスメートなども口をそろえてこたえているのですが、白井は、少年の頃から、友人が少なかったそうです」
常務はつぶやき、
「白井は内向的な性格でしてね、会社の中でも、個人的に深く交際している社員は一人もいません」
経理課長が付け足した。
影の人物が浮かんでこなければ、本当の動機といったものも、もう一つはっきりしてこないだろう。
「酒屋さんをしているという、大津の実家は、それなりの暮らしをしているのでしょう?」
「いまは長兄の代になっていますが、それなりどころか、相当に手広くやっています。資産なども、結構あるようです。こう言っては何ですが、少し無理をすれば、一億四千万円の肩代わりも、不可能ではないと思います」
「なるほど」
そうした含みがあればこそ、『ホクエツ』では内々に処理すべく、�社内捜査�を進めてきたのであろう。
「白井の横領は、無論、これが初めてでしょうね」
「それが、そうではなかったのですよ」
経理課長は、苦り切った顔をした。犯行は、今度で四度目だという。
「分かりませんね。こちらの会社では、そうした前歴のある人間を、そのまま、経理主任のポストに据え置いたのですか」
「監督不行き届きと指摘されれば、そのとおりですが、一時流用の場合は、発見が困難です」
「一時流用?」
「各営業ブロック毎の商品と預金残高は、毎月二十日に帳合されることになっています。これは、常務と私とでチェックするのですが、このとき、いわゆる帳尻が合っていれば、一時流用の不正は、容易に発覚しません」
「どういうことですか」
「たとえばですね、当該月の集金を、十八日まで不正流用していたとしても、十九日にきちんと入金され、預金通帳残高が合っていれば、二十日のチェックはパスします。それ以上、突っ込んだりはしません」
時間的にもそれ以上のチェックは無理だ、と、経理課長は言った。
白井は、一種の浮き貸しでもしていたのだろうか。
「恐らく、そうだと思います。短期間の融資とは言え、額が大きければ、闇《やみ》の金利もばかになりません」
「交遊関係が少なくても、白井には、そういう影の相手がいたわけですね」
「しかし、その相手も、私どもには、まったく見当がつかないのですよ」
常務は経理課長を促し、課長は封筒から一通のコピーを取り出した。
(1)一千万円=昨年七月
(2)二千万円=昨年九月
(3)五千万円=昨年十一月
(4)一億四千万円=今年十一月
それが、今回のチェックで明るみに出た事実だった。
(1)(2)(3)は、当該月の二十日までに、入金されているので、何事もなかった。
だが、回を追って、流用金額はエスカレートしているのに、(3)と(4)の間には、一年のブランクがある。
これはどういう意味か。
(1)(2)(3)は、いわばリハーサル的なステップで、まとまった売上げが集金されてくる機会を窺《うかが》っていた、ということだろうか。
「そうですね。目的は浮き貸しによる裏金利ではなくて、一億円を越える大金を、そっくり横領することだったのかもしれません」
経理課長の眼鏡《めがね》をかけた顔は、さらに、沈んだものになっている。
問題の一億四千万円は、首都圏の得意先二十一社からの売上げで、十月下旬から十一月上旬にかけて、集金されたものだったという。
質疑は、そこでいったん中断された。
刑事はその場で電話を借りて、県警捜査一課へ、意外な経緯を報告した。
「分かった」
淡路警部はこたえた。
警部は一呼吸置いてから、告訴を指示してきた。
「事情聴取が重複しても、時間の無駄だ。それ以上詳しい内容は、所轄で話してもらうんだな」
「そうします」
刑事は受話器を戻した。
常務と経理課長は、刑事に同行して、所轄の関内署へ行くことになった。
死者を告訴することにしたのは、もちろん、一億四千万円の所在が不明なためである。
大金を、実際に手にしたのが白井以外の人間であるなら、その影の人物を炙《あぶ》り出すことが、同時に、殺人事件解決の端緒《たんしよ》となるわけだ。
横手北署の山岡部長刑事と原刑事が、JR関内駅で下車したのは、『ホクエツ』の常務と経理課長が、関内署の刑事課に入る頃だった。
山岡部長刑事が関内駅構内のカード電話で、横浜到着を横手の捜査本部に報告すると、敏速に、淡路警部からの最初の連絡が横手に届いていた。
「と、いう次第だ。部長刑事《ちようさん》たちも、関内署の事情聴取に立ち会ってもらいたい」
と、捜査本部長である署長は命じた。
山岡と原は、先行の三人を追って、何はともあれ、関内署へ向かった。