秋田県横手市の毒殺事件が、各紙社会面で、改めて大きい記事となったのは、翌十二月三日、日曜日である。
浦上伸介は、朝が遅い。
東京都|目黒《めぐろ》区、東横線中目黒駅に近い『セントラルマンション』。九階建ての三階にある1DK、307号室が、シングルライフを楽しむ三十二歳の住居であり、仕事場だ。
浦上が眠い目をこすりながらベッドから這《は》いだし、朝刊を取ってきたのは、間もなく、午前十一時になろうとする頃だった。事件物を得意とするルポライターの一日は、朝刊三紙の社会面に目を通すことから始まる。
全壁面を占める本棚、そして、ベッドとスチール製の大きい仕事机で、部屋はいっぱいだ。机の上にはファックス、ワープロなどが載っている。
浦上は親しい先輩谷田実憲同様、夜はアルコール抜きでは一日だって過ごせないくせに、朝はコーヒーを欠かせない体質だった。
浦上はコーヒーメーカーで好みのキリマンジャロを淹《い》れ、キャスターをくゆらしながら、朝刊を広げたが、
「おいおい、冗談じゃないですよ」
だれかに話しかけるようにつぶやき、慌てて他の二紙も開いていた。
ルポライターの全神経は、本能的に、横手の殺人事件に吸い寄せられていく。
一億四千万円の蒸発と、人目を逃れた、東北のぼろアパートでの毒殺。
「こんな面白い情報《ねた》があるのに、何の連絡もないとは、先輩も冷たいもんですね」
つぶやきは、そんなふうに変わってきた。すると、タイミングを合わせるかのように、電話が鳴った。
「先輩、水臭いですよ」
浦上は受話器を取るなり、口走っていた。しかし、
「ご機嫌斜めだね」
電話を伝わってきたのは、谷田ではなかった。
「どうも、浦上ちゃんは寝覚めが悪いようですな。大事な先輩と何があったのかね」
毎度おなじみの甲高い声は、『週刊広場』の細波《ほそなみ》編集長だった。休日とあって、編集長は、杉並《すぎなみ》の自宅からかけていた。
「浦上ちゃん、日曜日は、いつものように将棋|三昧《ざんまい》かい」
「分かってますよ。今日は将棋センターへ行くなってことでしょ」
「へえ、この時間に、もう朝刊に目を通しているとは知りませんでしたよ」
「気に要《い》らないのは、谷田先輩です。これだけの事件を、週刊広場が飛び付かないわけはないでしょう」
「それじゃ横浜へ行って、大事な先輩にイチャモンつけてくるんですな」
編集長はおどけた言い方をしたが、しばしの間を置いてから、一転、決断を下すときの、甲高い声に戻った。
「浦上ちゃん、この殺人《ころし》はいけるよ。取材費は惜しまない。休日返上で、早速着手してもらおうか」
特集の企画は、本来なら編集会議を通すのが順序だが、細波編集長は速戦即決、ワンマン的要素が強かった。
そして、その強引な決断がヒットするのも、長年週刊誌に携わってきたキャリアゆえだろう。
『週刊広場』には、他にも何人かの契約ライターがいる。しかし、横浜絡みの犯罪なので、編集長の念頭に、浦上以外はないようだった。
浦上には、谷田という絶好のバックアップがいる。
「浦上ちゃん、谷田さんに会って捜査の進展具合をつかんだら、自宅《うち》へ電話をくれないか。捜査状況を見た上で、どう料理するか決めよう」
甲高い声は、一方的にそう言って、電話を切った。
日曜日なので、記者クラブのキャップも今日は休みだ。
横浜の谷田の自宅へ電話を入れると、
「おう、お目覚めか。もう少ししたら、こっちからかけようと思っていたんだ」
谷田のいつもの明るい声が、直接電話口に出た。細波編集長の甲高いのとは質が違うけれど、谷田の声も大きい。
「先輩、先日は京都みやげの地酒と樽詰めをありがとうございました。奥さんによろしく言ってください」
それにしても、と、浦上が口先をとがらせると、
「おい、電話が遅れたからって、そうかっかしなさんな。こっちにも、都合ってものがある」
谷田は悪びれたふうもなく、一応の弁解を言った。
「秋田の横手から、部長刑事《でかちよう》と若手の刑事が横浜へ来ているんだ。昨夜《ゆうべ》は、このお二人をぴったりマークしていたのでね、電話をかけたくたって、かけられやしなかった」
マークした結果、(新聞には報道されていない)何かをつかんだのか。
「今日辺り、きみと一局指したいと思っていたんだ。だが、そうもいかない。淡路警部が日曜出勤なのでね、オレも、午後、支局へ上がる」
ということで、二人はその前に、桜木町《さくらぎちよう》の喫茶店で落ち合うことにした。
浦上はスクランブルエッグを作り、トーストを一枚だけ食べると、『セントラルマンション』を出た。
浦上は、谷田のような大柄ではなく、中肉中背の目立たない男だ。
立てえりの茶のブルゾンに、取材用カメラなどの入ったショルダーバッグ。浦上は、東京都内を取材するときも、地方へ出張するときも、ほとんど同じ格好だった。
東横線の急行で、中目黒から終点の桜木町まで正味三十三分。
浦上が、大岡《おおおか》川沿いの指定された喫茶店に入ったのは、午後一時を少し回った頃である。谷田は、すでに大柄な姿を見せていた。
窓際のテーブルだった。