父親の跡を継ぎ、大津市で手広く酒店を経営する久志は、いかにも近江《おうみ》商人らしい、腰の低い人間だった。殺された弟とは五つ違いの、四十歳。
久志が、死者と対面するために、遠く滋賀県から秋田県へ駆けつけてきたのは、山岡部長刑事と原刑事が『和泉マンション』の聞き込みを終え、相鉄線で横浜市内へ引き返した頃である。
早朝、大津を出発し、東海道新幹線、東北新幹線、そして奥羽本線のL特急�つばさ9号�と乗り継いできた久志が横手駅に降りたのは、十五時三十四分だった。
久志は駅前からタクシーに乗り、まっすぐ横手北署へ入った。
「お手数をかけましたが、どうしてこんなことになってしまったのか、訳が分かりません」
それが、遠く離れた北国の霊安室で、変わり果てた実弟を確認したときの兄のつぶやきだった。
それだけに、兄は涙も見せず茫然《ぼうぜん》としていた。
その久志から事情を訊《き》き出すには時間が必要だった。
尋問は、刑事課長が自ら担当することになった。刑事課長は、新聞記者を避けるために、(三階の捜査本部ではなく)一階署長室のソファへ久志を案内し、お茶を出した。
署長も、同じテーブルを囲んで、ソファに腰を下ろした。
横の机では、若い刑事が、メモを取るための用紙を広げた。
問題の、眼鏡《めがね》の男の話が出たのは、
「弟さんが、最近大津の実家へ帰ったのはいつですか」
と、それを質問の導入にしたときである。
「このごろは、滅多に顔を見せませんでした。もう一年半近くも戻らないのではないでしょうか」
久志は指を折って数え、
「去年の七月に来たのが最後です」
と、こたえた。
そのとき、友人と称する男が同行してきて、実家に二泊していったというのだ。
「眼鏡をかけた人です。明るく、人なつこくて、よく笑う人でした」
というこの男の印象が、山岡部長刑事が『和泉マンション』で聞き込んだのと同じものだった。
「弟より、二つ三つ年上でしたでしょうか。モトジマさんと言ってました」
「ホクエツの同僚ですか」
「いいえ、同僚ではありませんが、会社がホクエツの近くで、確かワインの輸入会社にお勤めと聞きました」
「弟さんが、友人を実家に泊めることは前にもあったのですか」
「後にも先にも、モトジマさんが、初めてでした」
白井は友人が少なかった。親しい友人が皆無だったことは、実兄によっても裏付けられた。
すると、二泊もしていった「モトジマ」の存在を無視することはできまい。
しかも、照合してみると、昨年七月というのは、白井が、売上げ金に最初に手をつけた月ではないか。そう、(1)の一千万円を流用したのが、昨年七月だ。
「きみ」
刑事課長は、横の机でボールペンを走らせる若い刑事を見た。
(至急、神奈川県警の淡路警部に、モトジマのことを電話したまえ)
課長の目がそう語っている。
若い刑事は一礼して立ち上がると、署長室を出て行った。
刑事課長は質問を戻した。
「弟さんが失踪《しつそう》したことと、一億四千万円の横領を知ったのはいつですか」
「十一月二十日の夕方、ホクエツの常務さんから、お電話を頂戴《ちようだい》しました」
「弟さんからの連絡は、最後まで、一切なかったのですね」
「弟は何とも言ってきませんでしたが、その後、女の人からの電話がありました」
「女?」
「弟が殺されたのは、十一月二十五日か二十六日と言われましたね」
「その日に電話が入ったのですか」
「はい。二十五日朝と、二十六日夕方の二回でした」
久志にはまったく心当たりのない女だったが、先方は自分を名乗らなかった。
『保雄さんは帰っていますか』
女は二回とも、手短に尋ねてきただけだった。
久志が戻っていないとこたえると、女は、こっちの質問は一切無視して、がちゃんと電話を切ったという。
「保雄が女性と交際していたなんて、聞いていなかったので、あの電話は、ホクエツの社員が、実家の様子を窺《うかが》ってきたのだろう、と勝手に受けとめていました。しかし、いま、考えてみると、あれは保雄が殺されたと推定される日なのですね」
その点に、久志は改めて意味を感じているようだった。
刑事課長は質問する。
「どのような感じの女性でしたか」
「若い声だったと思います。ですが、話し方は落ち着いていました」
「ことばに、土地の訛《なまり》がありましたか」
「訛は、少し感じられましたが、関西弁ではなかったですね」
「弟さんは、一年半近く、大津に帰っていなかったと言いましたね。その間に親しくなった女性かもしれませんな」
刑事課長はそう言って、同意を求めるように、同席の署長に目を向けた。
そのとき、神奈川県警捜査一課の淡路警部へ連絡の電話をかけに行った若い刑事が、戻ってきた。
「課長、横浜の電話を代わってください」
若い刑事は言った。
神奈川県警捜査一課には、『和泉マンション』の聞き込みから帰った山岡、原両刑事が居合わせており、
「取り急ぎ報告事項があるそうです」
若い刑事は山岡の意向を伝えた。
「失礼します」
刑事課長は、久志に断わってソファから立ち上がり、署長室を出た。
横浜との電話は、同じ一階の、警務課につながっていた。
「もしもし」
先方の声は、市内電話のように、はっきりと聞こえる。
山岡部長刑事は、手短に大和の聞き込み結果を報告し、
「とりあえずの焦点は、酒を飲んで白井の部屋に同行してきたという、この男ですね」
と、言った。
「日曜日なので、オフィスは閉まっているでしょうが、大津の実家に二泊したという、モトジマの勤めるワイン輸入会社を探し出して、一刻も早く、どんな笑い声か聞いてきます」
ベテランは、気負い込んだ口調だった。
「部長刑事《ちようさん》、その男のほかに、女も出てきたよ」
刑事課長は、話の最後に、大津の実家へ二回電話をかけてきたという、身元不明の女のことを伝えた。
「確かに、殺人推定日の電話というのが気に入《い》らないですね」
山岡も、当然なことに、電話の女に強いこだわりを示した。