浦上伸介は、出勤途中の谷田実憲と、菊名《きくな》駅前で待ち合わせた。
JR横浜線と、東急東横線が交差している菊名は、谷田夫婦が入居している住宅団地に近い。
朝早く、電話で起こされた浦上は、約束の九時より早目に、指定されたハンバーガー店に寄った。狭い道路沿いにある角店《かどみせ》だった。
間もなく谷田が、大柄な姿を見せた。
谷田が昨夜遅く、淡路警部からオフレコで入手した情報《ねた》は、ワイン輸入販売会社『三友商事』の営業部係長、本島高義を中心とするものだった。
谷田はトマトジュース、朝食前の浦上は、アメリカンコーヒーにハンバーガーを頼んだ。
セルフサービスで、奥のテーブルにつくと、谷田はさっきの電話を敷衍《ふえん》し、雑談的に切り出した。
「このごろは、こういう男が、結構いるんだよな」
「結婚の意志はあるのに、女性に縁のない三十代ですか」
「おいおい、変な顔するなよ。浦上サンのことを言ったわけじゃない」
「ぼくが将棋指すのは、結婚問題とは無関係です」
「承知しておりますよ。だが、この二人、白井保雄と本島高義の場合は、ギャンブルを、もう一つ満たされない日常の吐け口としていたんだな」
「そうした例は、少なくないと思いますね」
「しかし、本島も言っているが、ギャンブルにそれほど深入りしていたわけではないらしい」
「二人とも、それぞれの会社で、主任と係長。中堅社員として、ちゃんと仕事していたわけでしょ」
「オレは、それが彼らの本当の顔だと思うね」
だから、一億四千万円横領の動機が分からない、と、谷田は本題に入った。
焦点は、本島が横手に実家を持つことと、白井の死亡推定日に、奥羽本線で横手へ帰っていたことだ。
「白井に会うための帰郷、ってのは、どういう意味ですか」
浦上が、さっきの電話でちらっと聞いた内容を問い質《ただ》すと、
「仲介者は女だ」
正確には、女からかかってきた電話だ、と、谷田は取材帳を取り出し、走り書きを確認してこたえた。
「この女が、白井の大津の実家へ、二回電話してきたのと同一人である証明はない。だが、同じ女と考えるのが自然じゃないか」
「そうですね。あの時点では、白井の失踪は表立っていなかったわけですからね。でも、女性に縁が薄いはずの白井の周辺に、最後のときになって、女が登場するのはどういうことでしょう」
「ただ、この話は、飽くまでも、本島を信じた場合でね。昨夜、横手北署の部長刑事《でかちよう》さんは、マージャンクラブから呼び出した本島を執拗《しつよう》に追及したそうだが、本島の説明は、見方を変えれば、すんなり受け入れられない面もある」
女からの電話は、十一月二十四日、金曜日の昼前、本島の勤務先へかかってきたのだという。
女は、一切自分を名乗らなかった。手短かに用件だけを伝えてきた。
『白井さんが、どうしてもお願いしたいことがあると言っています』
という一方的な内容だった。
『どなたにも気付かれないよう、横手へ来ていただきたいのですって』
『横手って、秋田の横手ですか』
本島が念を押すと、
『横手は、本島さんの故郷《ふるさと》でしょう』
電話の女は言った。白井を通じて、委細承知という感じだった。
「本島が言うには、白井がなぜ自分の故郷で待っているのか、まったく釈然としなかったそうだ。しかし、その数日白井を見かけなかったし、大和の和泉マンションへ電話を入れても応答がないので、気にしていた矢先だったというんだな」
と、谷田はつづける。
本島が横手へ帰ることを承知したのは、電話の女の声が切羽詰まっている感じだったのと、たまたま本島自身、故郷《くに》へ帰る必要があったためだ。これが、昨夜、本島が山岡部長刑事にこたえた、もう一つの帰郷目的である。
大曲《おおまがり》へ嫁いでいる妹が出産したので、その祝いを届けなければならなかったのだ。
「本島は二日間の週休を利用して、一泊で秋田へ行ってきたそうだ」
十一月二十五日、土曜日の朝早く横浜を発《た》って、二十六日、日曜の夜遅く帰浜というスケジュールだ。
電話の女が指定してきた白井との面会場所は、『よこてプラザホテル』のレストランである。
『よこてプラザホテル』は横手駅前にあり、レストランは、駅前広場に面した一階だった。
待ち合わせ時間は、二十五日午後七時。
「だが、白井は現われなかった。本島は一人夕食を済ませ、九時まで水割りを飲んでいたが、連絡の電話一本、入らなかったそうだ」
「先輩は、本島の主張を、どのていど信じますか」
「大曲へ嫁いだ妹さんが十月に出産しているのは本当だし、微妙なところだね」
「淡路警部の意見はどうですか」
「感触として、一億四千万円と本島のかかわりは薄いと見ているようだ。が、それではなぜ、白井が、本島の故郷である横手の、古いアパートに潜んでいたのか。当然、警部は、その辺に引っ掛かりを残してはいる」
十一月二十五日午後七時、『よこてプラザホテル』。
指定してきた時間に、白井が現われなかったというのは、すでにそのとき、白井の生命が絶たれていたことを、意味しようか。と、すれば、死亡推定時刻は、二十五日の午前から同日の夕方まで、といった具合に、ぐっと短縮されてくる。
「しかし、先輩、白井はどうして、自分で本島に電話をかけてこなかったのでしょう? 大事な用件なら、直接、自分で電話すべきではありませんか」
「本島の説明は、ワンクッション置いて聞くとしても、白井の実兄の証言は信じていいのではないかな」
「二回、電話をかけてきた女ですね」
「陰で女が動いているのは間違いない」
「でも、同じ女だとすると、矛盾してきませんか。実兄には白井が帰っていないかと、いわば所在を尋ね、本島には白井との面会場所を指定しているのでしょ」
「女は、白井の兄に対しても、本島に対しても、一切自分を名乗っていない。その点は同じだな」
「話を戻せば、本島もおかしいですね。事件がこれだけ大きく報道されているのに、黙っていたのは解《げ》せない。常識人なら、最寄りの警察へ通報してくるべきです」
「同感だね。妙な疑いをかけられたくなかったという、本島の言い分は、そのとおりかもしれないが」
「ま、女からの伝言電話があったことは肯定するとしてもですよ、本島は、遠方へ出向いて行くほど白井と親しかったのですかね。本島の故郷とはいえ、横浜からはほど遠い、東北の秋田県ですよ」
「だからさ、本島の説明の上では、一日延ばしになっていた、妹さんの出産祝いが、前提にあったわけだろ」
「勘繰れば、出産祝いにかこつけた、裏の目的が、殺人《ころし》だったということも、あるでしょう」
「そのとおりだとすれば、殺された白井にとって土地鑑のない横手は、身元|湮滅《いんめつ》のために選ばれた、遠隔の殺人現場ということになるか」
「二十五日と二十六日、横手での、本島の足取りを洗う必要がありますね」
「ああ。横手の部長刑事《でかちよう》さんも、本島を徹底的にマークすると張り切っているそうだ」
谷田はトマトジュースを飲み干して、ピース・ライトに火をつけた。
「いまは何の裏付けもないが、電話の向こうにいる女は、なぜか美人の予感がするね」
谷田はゆっくりと、たばこの煙を吐いた。
「先輩、犯罪の陰にいる女は、大体が美人です。でも、美女が、白井の周辺にいたと思いますか」
「問題は、女と白井とのかかわり方だな」
白井は結婚願望が強かった。これは『ホクエツ』の上司や、『和泉マンション』の管理人などが、口をそろえて指摘していることだ。
「親しい女性ができたら、ついうれしくなって、周囲に口を滑らすのではないですか」
「それなんだよな。確かに、恋人なりガールフレンドができたのなら隠す必要はない。逆に、吹聴《ふいちよう》して然《しか》るべきだ。しかし、刑事《でか》さんたちの聞き込みに、女は浮かんでこない」
「聞き込みが片寄っているのかな」
「ルポライターの目で、やり直してみますか」
「どっちにしろ、簡単に浮かんでこないのが変ですよね。電話の美女が実在するなら、白井は交際の公表を口どめされていたわけですか」
「そんな、口どめをする恋人がいるかい」
「相手が人妻のような立場なら、そういうことにもなるでしょう」
「なるほどね。女には、白井との交際を表|沙汰《ざた》にできない、何らかの理由があるってことか」
しかし、白井が、横手に逃亡していたのは、動かしようもない事実だ。横手は、女が本島に電話で伝えてきた町だ。
女が、白井の行方をそれほど詳しく承知していたのなら、当然、一億四千万円絡みということになろう。
そして、また、どうしても線上に浮かんでこないのなら、電話は本島の一人芝居ということで、改めて、本島の容疑が、濃くなってくる。
「何度でも繰り返さざるを得ませんが、大津の実家へ白井の所在を問い合わせてきた女と、本島に、よこてプラザホテルを指示してきた女との関連は、どうなるのでしょうかね」
浦上も、たばこに火をつけた。
本島が真犯人《ほんぼし》なら、女の電話に呼び出されたなんて小細工は不要だろう。浦上はそう考えてみたのだ。
殺人を実行したのが本島であるなら、犯行日の帰郷は一切伏せるべきではないか。
「そうじゃないね。本島が真犯人《ほんぼし》なら、女の電話は、事後工作ということになるかもしれんぞ」
谷田は、たばこを消した。
横手は、本島が生まれ育った町である。顔見知りも多いことだろう。
大きい町ではなし、本島のほうでは避けていても、どこかで、知人と出会ってしまったのかもしれない。
それは、十分考えられる事態だ。
「その、再会した知人から帰郷が発覚する場合に備えての、事後工作ですか」
「このことは、一応念頭に置いておくべきだろうな」
谷田は、自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
ともあれ、本島は、凶行日と推定される十一月二十五日と二十六日、殺人可能な場所にいたわけである。
ここで留意すべきは、事件発覚の端緒《たんしよ》となった電話だ。
十一月三十日の夜、『藤森アパート』の老家主に、「千葉」と名乗っていた白井の呼び出しを依頼してきた電話は、男の声だった。
本島が口にするところの�電話の女�は、存在があいまいでも、�電話の男�は間違いなく実在する。白井が、偽名で『藤森アパート』に潜伏していたことを、承知していた男。
「電話の男が本島なら、筋は通ってくる。だが、本島が真犯人《ほんぼし》なら、毒殺した人間を、数日経って呼び出そうとした意味が、分からない」
谷田は昨日の疑問を繰り返した。
「先輩、横手へ行くときが、きたようです」
浦上はたばこを消して、紙コップのコーヒーを飲み干した。