原刑事が一○四番で電話番号を問い合わせ、先方のダイヤルをプッシュしたところで、テレホンカードを何枚か用意した山岡部長刑事が代わった。
先方がクラブなら、午後三時というこの時間では、従業員はだれもいないかと思ったが、呼び出し音が二回と鳴らないうちに、女性の声が出た。
「警察ですが」
山岡は言った。
「妙なことを伺いますが、そちらはクラブですか」
「いいえ、柾谷小路《まさやこうじ》近くの、会員制ビジネスホテルでございます」
はきはきした声が返ってきた。
ビジネスホテルとは、意外だった。山岡は質問を重ねる。
「マネージャーにつないでいただきたいのですが、マネージャーさんは、何というお名前ですか」
「千葉と申しますが」
「千葉さん?」
受話器を握り締める部長刑事の横顔を、緊張が走った。
何でもないときなら、偶然で済まされるだろう。しかしいま、これを偶然と言えるか。
毒殺された白井保雄が、『藤森アパート』を借りたときの偽名が、「千葉」ではないか。しかも、女が新潟へ電話をかけたのは、白井が生活圏から姿を消そうとする寸前である。
言ってみれば、逃亡前夜だ。
女は、『シャルム新潟』の千葉マネージャーと、白井を蒸発させるための、打ち合わせをしたのかもしれない。
隣り合ってこそいないが、新潟は、秋田と同じ日本海側の県である。日本海側という共通点に隠されたものはないのか。
山岡は、千葉というマネージャーが電話口に出てくるまで、一分を一時間の長さに感じる、重圧に見舞われた。
「お待たせしました」
渋い声が伝わってきた。
会員制ビジネスホテルのマネージャーは、しかし、電話で話す限り紳士的だった。『ニューバレル』のマスターにも増して、口の利《き》き方が丁寧だ。
山岡の質問に対しても、澱《よど》みのないこたえを返してくる。
『シャルム』の本社は大阪だが、大阪の天王寺《てんのうじ》の他に、日本海側の都市、秋田、新潟、金沢《かなざわ》、下関《しものせき》などに、五つのホテルをオープンしているという説明だった。
『シャルム新潟』のマネージャーである千葉は三十四歳。国彦《くにひこ》という名前だった。
だが、千葉の口調が滑らかなのは、そこまでだった。
「警察の方が、一体何のご用でしょうか」
と、反問してきたので、
「先月十九日の日曜日、東京都下の町田市から、一○○番申し込みで、女性の電話が入ったでしょう」
山岡が問題を絞ると、先方の声が低くなった。
山岡は、あえて、秋田県警を名乗らなかった。もちろん、横手北署の殺人事件捜査本部も口にするわけがない。
あるいはこの男が、事件発覚のきっかけとなった電話を、『藤森アパート』の家主にかけてきたのかもしれないのである。
そう、場合によったら、横手へ帰る前に、新潟へ回る必要が生じるかもしれない。ここで、先方に、余分な警戒を与えるわけにはいかない。
いま、この場で確認しなければならないのは、ようやくベールに浮かんできた、女の身元だ。
幻影の美女を、完全に、ベールのこちら側へ引きずり出さなければならない。
「彼女が、警察のお調べを受けるようなことをしたのですか」
千葉はさらに低い声で、十一月十九日の、女の電話を認めた。
「その女性に、直接関係したことではありません。ただ、少しばかり、お話を聞きたいのです」
部長刑事は、ことばを選んだ。
「あの女性は、近く結婚なさるそうですな」
「結婚? 私は聞いていません」
「結婚前に、一度新潟へ帰る、というようなことを伺いましたが」
「ああ、それは彼女のことではありません。私の再婚です。私の再婚話を知って、彼女が一度帰郷すると言ってきたのです。それが、あの日の電話でした」
その限りにおいて、電話の内容は、『ニューバレル』のマスターが小耳に挟んだのと一致している。
千葉は、事実をそのまま、こたえているのか。
「あなたの結婚のために、帰郷されるとは相当にお親しい間柄ですな」
「私と彼女は、五年前まで、新潟市内で、所帯を持っていました」
「別れた奥さんですか」
これは驚きだった。
「電話はよくかかってくるのですか」
「たまにですね。いまはまったく別々な生活をしていますが、私と彼女は高校時代のクラスメートだったのです。ですから、離婚した元夫婦といっても、他の人たちの場合とは、ちょっとケースが違うかもしれません」
二ヵ月か三ヵ月に一度ぐらいだが、電話で近況を話し合う関係が、別居後五年経ったいまも持続されているという。
どうやら、二人は、けんか別れではないらしい。
その、他の離婚者とは異なるケースというのが、(男女間の愛情とは無関係に)一億四千万円の横取りで結ばれた、ということはないのか。
「十九日の電話は、ただ、それだけの用件だったのですか」
「何ですか、しばらく旅行がつづくかもしれないので、それで電話をしてきた、というようなことを、彼女は言ってましたね」
千葉の説明は、その限りにおいては、不審を挟む余地はなさそうだ。
しかし、電話の声だけで、表情が見えないので、シロかクロか、ベテランの山岡にしても、もう一つ確証が得られなかった。
ま、この男の、灰色だけは、ぬぐえない。すべては、当の女性に会ってから、ということになろうか。
「彼女、いまは横浜に住んでいます」
千葉は低い声でこたえた。
やはりそうだったのか。山岡は納得という顔でボールペンを持ち、備え付けのメモ用紙に、女が入居しているという横浜市|旭《あさひ》区の賃貸マンションと、女の氏名を控えた。
高校時代のクラスメートなので、女も千葉と同じ三十四歳だった。
山岡は一応の礼を言って、長い電話を終えると、新しいテレホンカードを取り出した。
その場でかけ直した先は、横手北署の捜査本部と、神奈川県警捜査一課の淡路警部だった。
「ご苦労だが、急いだほうがいい。すぐ女を当たってくれ」
と、横手北署の署長は指示し、
「応援を出しましょう」
淡路警部はそう言ってくれた。
町田から、小田急で、白井のマンションがある大和へ抜け、大和で横浜行きの相鉄に乗り換えて、四つ目の駅が二俣川《ふたまたがわ》である。
「女のマンションは、県道沿いです。二俣川署の近くですね」
淡路警部は、山岡が読み上げる女の住所を聞いて、言った。
デート場所は人目を避けた町田だが、双方のマンションは、私鉄の駅にして、四つしか離れていなかったことになる。
淡路配下の刑事とは、二俣川駅の改札口で待ち合わせることにした。
山岡部長刑事と原刑事は、昨日、白井のマンションを聞き込むために、横浜—大和間を相鉄電車で往復しているわけだが、途中の二俣川という駅名には、記憶がなかった。
二人は小田急町田駅の改札を通り、ホームへの階段を上がった。