タイムリミットを、午後五時と決めた。五時まで待っても篠田美穂子が帰ってこなければ、マスターキーで、三十二号室の扉を開けることにした。
しかし、それほど苛立《いらだ》つ必要はなかった。
「刑事さん、篠田さんですよ」
管理人が緊張した声を発したのは、壁の時計が、午後二時を指したときである。
どこへ出掛けていたのか、篠田美穂子は旅装ではなかった。
美穂子はグリーンと黒の、千鳥格子のスーツだった。ほっそりした体型に、ロングヘアが似合っている。
「なるほど。色っぽい美人だ」
ベテラン部長刑事は、丸いすから腰を上げた。
ようやくにして、待ち人が、姿を見せたのである。
「お尋ねしたいことがあります」
二人の刑事が背後から声をかけたのは、エレベーターの前だった。
「警察の方?」
美穂子は、原が提示する黒い手帳を見て、ポシェットを持ち換えた。
心なしか、美貌《びぼう》に疲労の翳《かげ》があった。
山岡が白井保雄の名前を出すと、美穂子の視線が揺れた。
(どうして、あたしのことが分かったのかしら)
そういう目の動きだった。
が、それは一瞬のことで、
「立ち話というわけにもいきませんわね。あたしの部屋へどうぞ」
美穂子はエレベーターのボタンを押した。
美穂子が住む三十二号室は、白井が大和に借りていた『和泉マンション』と同じ、1LKの間取りだった。
しかし、白井の部屋と違って、こちらは乱雑だった。床の上に、吸い殻で一杯の灰皿が置かれてあった。
このところの美穂子は、心身ともに、部屋を整頓《せいとん》する余裕がなかったのか。二人の刑事はそう思った。
質疑は、リビングルームの食卓で行なわれた。
美穂子はインスタントコーヒーをいれようとしたが、
「どうぞ、お構いなく」
山岡は、早速質問に移った。
美穂子は、刑事の前では、白井との交流を隠さなかった。
「白井さん、とんでもないことをしたのですね」
美穂子は、テレビと新聞の報道で、一億四千万円の拐帯を知った、という言い方をした。
「お二人の交際はいつからですか」
「ルアンダを開店して間もなくですから、二年近くになりますわ」
美穂子の前に白井が現われたのは、『ルアンダ』の客としてだった。
二俣川は、白井にとって、通勤の帰り道に当たる。横浜を始発駅とする相鉄下り急行の、最初の停車駅が、二俣川である。また、普通電車で帰ってきた場合は、乗り換え駅ともなるわけで、白井は、二俣川まで戻ってきて飲むことが多かったらしい。
「単なる客ではなく、相当に親しかったわけですな」
「親しくおつきあいするようになったのは、去年の春頃からです」
美穂子はすんなりとこたえ、なおかつ、こんなふうにつづけた。
「まだ、どなたにも打ち明けていませんが、白井さんとは、結婚してもいいと思っていました」
「ほう」
ベテラン部長刑事は、一応うなずいたものの、鵜呑《うの》みにはできないぞ、という横顔だった。
横浜の中心地でのスナック開業にしても、
「はい、何とか実現したいと考えていますの」
美穂子は、妙な隠し立てをしたりはしなかった。
なまじ弁解などすると、話の辻褄《つじつま》が合わなくなる。美穂子のことだ、咄嗟《とつさ》のうちに、それを計算したのかもしれない。
「失礼だが、伊勢佐木町辺りにお店を持つとなると、資金が、相当に必要ではないですか」
「もちろん、あたしの蓄えでは、足りるわけがありませんわ」
不足分は、白井の実家から融資を受けることになっていたという。
「大津の実家へ頼もうと言い出したのは、白井さんのほうからでした」
「しかし、白井が勤めていたホクエツの上司にしてもそうですが、大津のお兄さんも、白井に縁談があったなんて、一言も口にしていませんよ」
ベテラン部長刑事は、やんわりと切り込んだ。
美穂子は、たじろがなかった。
「はい。結婚の話は、実家からの融資がはっきりするまで、伏せておくことになっていました。それも、白井さんが言い出したことです」
「お話の主旨が、どうも、よく分かりませんな。なぜ、結婚を伏せなければならなかったのですか」
交際を隠すのは、美穂子にとってこそ、必要だったのではないか。
刑事のそうした疑惑をよそに、美穂子は、すらすらと説明をつづける。
「白井さんは、あたしに離婚歴があることを気にしていたのですわ」
「白井だって、いい年齢《とし》だったではないですか」
「白井さん自身が気にしたのではなく、田舎《いなか》の親戚が反対するのではないか、と、それを心配していたようです」
だから、融資の話は、飽くまでも白井自身の独立ということで進め、計画が軌道に乗ったところで、結婚を公表する段取りだったという。
「それも、白井が言い出したことですか」
山岡は美穂子の顔を見た。
一昨日、遺体引き取りのため、横手北署を訪れた白井の実兄久志は、捜査本部で細かい事情を聞かれているが、融資の件は、(縁談と同じことで)まったく話題に出ていない。
調べればすぐに分かる事実を、しかし、美穂子はこんな具合に言い繕《つくろ》った。
「あたしも、今度のことが新聞に報道されて気付いたのですが、実家に援助を頼むというのは白井さんの作り話で、資金捻出《ねんしゆつ》は、公金横領だったのですね」
でも、白井が、自分から進んで売上げ金に手をつけるとは思えない、と、美穂子はつづけた。
「白井さんは、よくない仲間に脅されて、お金を取られて殺されたのでしょうか」
「よくない仲間に、心当たりがありますか」
「あたしと結婚することになって、白井さんはきっぱりやめると言っていましたが、ああ見えて、ギャンブル好きでした」
美穂子は、暗に、本島高義を匂《にお》わせる言い方をした。
「なるほど」
回転の速い女だ、というように、山岡部長刑事は原刑事を振り返った。
確かに、それは筋が通った説明であるし、白井が息絶えてしまったいま、この場で、これ以上の追及は無理だった。
山岡は話題を変えた。
「白井は、言ってみれば、あなたの婚約者だ。婚約者が殺されたのに、あなたはなぜ、あなたのほうから警察へ名乗りを上げてこなかったのですか」
「心の整理が、つかなかったからですわ」
美穂子は初めて顔を伏せた。白い額に、後《おく》れ毛が垂れた。
「結婚の約束をしたと言っても、いまも申し上げましたように、当人同士だけのことです。大津の実家の方々とは、面識もありません」
焼香に行ったものかどうか、迷っている矢先だ、と美穂子は言い、そうしたあいまいな段階で、
「警察へ何を連絡したらよろしいのですか」
顔を伏せたままでつづけた。
「それにあたし、事件そのものについては、捜査のご参考になるようなことを、何も承知しておりません。白井さんが大金を横領したことも、秋田県の横手などという知らない土地で殺されたことも、何が何だか、さっぱり事情が分かりません」
「あなたと白井の交際のことで、もう少しお話を伺いたいのですが」
山岡が再度口調を改めると、
「すみません。今日はこのくらいにしてください」
美穂子はそっと顔を上げた。
「心の整理がついて、お焼香を済ますことができましたら、あたしのほうからご連絡します」
美穂子は、確かに疲れていた。美貌ににじみ出る疲労の翳《かげ》は、刑事の訪問を受けたことで、さらに倍加されたようでもあった。
二人の刑事は、席を立たざるを得なかった。
部屋を出るとき、
「念のためにお伺いしたい。先月の二十五日と二十六日、あなたは、どちらにおいででしたか」
山岡はさり気なく言ったつもりだが、
「あたしが、疑われているのですか」
美穂子は、突然、口元を引き締めていた。