浦上伸介は、午前九時過ぎには横浜駅へ来ていた。
新潟から帰った矢先であり、連日の早起きだが、取材が順調に回転しているだけに、気合が入っている。
昨夜、留守番電話にこたえて、谷田実憲に連絡をとると、
『オレんところは、淡路警部との約束で、相変わらず表立った取材は制限されている。しかし週刊誌は別だ。増してきみは、ベレー帽サングラスの女を割り出してきた功労者だからな』
親しい先輩は、勝手なロジックで、浦上を焚《た》きつけた。
もちろん、谷田の慫慂《しようよう》がなくても、一番に二俣川を訪れる手筈の浦上であった。
『捜査本部の方針もあるだろうから、篠田美穂子本人に会うわけにはいくまいが、他誌に出し抜かれないために、外堀は埋めておく必要がある』
と、指示してきたのは、『週刊広場』の細波編集長だ。
浦上は、相鉄横浜駅構内のスタンドで、朝食代わりの天ぷらうどんを食べて、急行に乗った。
二俣川で下車したのが、午前十時前である。
自動車運転免許試験場や、県立がんセンターのある北口へ出て、歩道橋を渡ると、三階建ての小さい共同ビルは、目の先にあった。
一階の和菓子屋が、店を開けるところだった。
二階の『ルアンダ』へ行くには、和菓子屋横の、細くて急な階段を上がらなければならない。
浦上は、シャッターが下りている『ルアンダ』の入口を階段下から撮影し、共同ビルの全景をカメラに収めて、裏通りへ回った。
細い路地を挟んで、小さい商店が点在していた。
美穂子がよく出入りしていたという『二俣製作所』は、雑貨屋の並びだった。雑貨屋との間に、わずかな空地があり、緑色のカード電話があった。
町工場は、午前十時の休憩に入るところだった。
共同ビルの所有者である工場主は、二人の従業員とともに、工場前の縁台に腰を下ろしていた。三人ともグレーの作業着で、黒いそでカバーをつけたままだ。
陽当たりのいい縁台にはお茶が用意されており、盆の上に、せんべいが出ている。
たまたまお茶の時間で、機械がとまっていたのは、取材記者にとって都合がよかった。
「へえ、週刊誌の記者さんかい」
いずれも初老の三人は、交互に浦上の名刺をのぞき込んだが、
「篠田さんなら、マンションに帰っていますよ。じかに、コーポ羽沢へ行ったらどうですか」
三人を代表して、工場主が言った。
三人の表情に、一抹の警戒と同時に、興味が浮き出ているのを、浦上は見た。昨日は、山岡部長刑事と原刑事が、訪ねているのである。
刑事につづいて週刊誌記者がやってきたとあっては、関心が高まるのは当然だ。
果たして、工員の一人が問いかけてきた。
「新聞には何も出ていないけれど、篠田さん、何をしたのかね」
「いいえ、彼女に直接かかわりがあるわけではありません」
浦上は、こうした際の常套語《じようとうご》を言った。
「するってえと、別れたご主人のことかい」
もう一人の工員が、先回りをしてきた。
「え、まあ」
浦上がことばを濁すと、
「篠田さんは、ああいう商売をしているけど、身持ちは固い。彼氏はいないんだよな」
工場主が、お茶をすすりながら、口を添えた。
「離婚してだいぶ経つのに、いまだに、別れたご主人と電話で話しているなんて、おかしな関係だね。それというのも、親しい人が、他にいないからだろ」
「彼女、おたくで愚痴をこぼしたり、何てことはなかったのですか」
「よくおしゃべりに立ち寄るといっても、私ら、そういう間柄ではありませんや」
工場主は苦笑し、
「第一、あの人は、泣き言を並べるような、めそめそした性格ではありませんよ」
と、工員が言った。
浦上は、なおも雑談的な質問をつづけてみたが、すべてが、谷田経由で承知しているデータのとおりだった。
美穂子は、上辺《うわべ》は親しみやすい美人だが、最終的には、だれにも心の中を見せないタイプのようである。白井保雄との交流も、完璧なまでに、周囲に隠し切っている。
ということは、大金横領のコントロールから、白井毒殺まで、すべて美穂子の単独犯行という結論になろうか。
そう、白井のギャンブル仲間である本島高義に電話をかけて、殺人日の横手へ呼び寄せたのも、もちろん美穂子だ。美穂子は擬装犯人を仕立て上げた上で、自らのアリバイを京都に用意する完全計画を立てたのだろうか。
(いや、違う)
浦上は唇をかんだ。
『藤森アパート』の家主に、電話をかけてきた男がいるではないか。
どのていどの比重を占めるのかは分からないが、�電話の男�は、間違いなく、共犯者だ。
(しかし、藤森アパートの下見も自分でこなしている、美穂子のようなタイプが、共犯者を準備するだろうか)
浦上の内面に、もう一つのつぶやきが生じてくる。
昨日、谷田は、桜木町の喫茶店で、美穂子の一方的な訴えを聞いたとき、
(電話の男を洗い出さない限り、美穂子に辿り着けない図式か)
と、考えたわけだが、浦上もまた、共犯者を否定する一方で、�電話の男�が、重要な壁であるのを感じる。
白井との交際を周囲に隠し切ったように、美穂子にはもう一人、だれにも気付かれずに関係を持つ男、Xがいるのだろうか。
だが、白井と違って、もう一人のXの存在は、考えにくい気もする。完全犯罪を実現するためには、白井同様、そのXの生命をも絶たねばなるまい。
いくら美穂子でも、たった一本の電話をかけさせるだけの役目で、男の生命を奪うようなことをするだろうか。いや、その場合は、白井|殺人《ころし》の実行もXの分担ということになるかもしれないが、どっちにしても共犯者がいるのなら、共犯者を始末しない限り、完全犯罪は完成しない。
すると、一連の犯行の延長線上には、もう一つの策略が隠されていることになろう。
美穂子が、仮にもう一つの殺人計画を立てているとしたら、そこにも擬装犯人を用意し、もう一つのアリバイ工作を準備しなければならなくなる。
そうした堂々巡りみたいな真似を、合理主義者の美穂子が採用するだろうか。
(やはり、単独の犯行か)
浦上の推理も、当然なことに谷田と同じだった。
一億四千万円を巻き上げ、白井を毒殺した時点で、美穂子にとっての一局は、完了している。浦上はそう考えた。
浦上はキャスターをくわえて、質問を戻した。
「篠田さんは、こちらで、離婚した前夫のことを、よく話題にしていたのですか」
「そういうわけじゃないけど、電話を頼まれたことがあるんでね」
それで、別れた亭主が新潟のホテルに勤めていることを承知しているのだ、と、工員の一人が言った。
「電話では、別れたご主人も、まじめな感じだったけどな」
あの人が、一体何をしたのかね、と、工員は問いかけてきた。
「伝言を頼まれたことが、あるわけですか。失礼ですが、何を言付かったのですか」
浦上が誘導すると、
「言付かったのではなくて、呼び出したのだよ」
二人の工員は、異口同音にこたえた。
「呼び出した、と、言いますと?」
「勤め先のホテルとか、入居している社員寮へかけるのだから、篠田さん、自分では電話しにくかったみたいですよ」
「彼女の代わりに、あなた方がダイヤルして、別れた旦那を呼び出して上げた、というのですか」
「いや、ダイヤルボタンを押すのは、篠田さんですよ。ほら、そこの電話でね」
工員は、隣の雑貨屋との間に設置されている、緑色のカード電話を指差した。
「別れたご主人は、千葉さんというんでしょ」
美穂子がダイヤルしたところで受話器を受け取り、先方が出ると、
『千葉さんをお願いします』
そう呼び出して、ふたたび、受話器を美穂子に手渡した、というのである。
「何ですって?」
浦上の内面で、判然としない渦が、目まぐるしく回り始めた。
かけた先は、ホテルであることもあり、社員寮のこともあって、電話を受ける人もまちまちだった。直接、千葉本人が出てくることもあった。
「まじめな感じだった」
と、工員が言うのは、そうしたときのやりとりを指してのことだった。
「ダイヤルは彼女がプッシュし、あなた方は頼まれて、ただ、千葉さんを呼び出して上げただけですね」
浦上は、自分の声が震えを帯びてくるのを知った。予想もしなかった発見がもたらす、震えである。
白井が美穂子の前夫と同じ名字「千葉」と名乗って、いや、名乗らされて、『藤森アパート』に潜伏していたなぞが、これで解けてきたと思った。
浦上は確認を求めて、つづける。
「最近も、呼び出しを頼まれたのではないですか」
「うん。ルアンダが休み始めてからだから、いつだったかな」
二人の工員が口をそろえると、
「いつもは、ルアンダの休憩時間の、午後四時から五時の間に来るんだけど、店を休んでいたせいか、あのときは遅かったじゃないか」
工場主が言った。
美穂子はふらっと入ってきて、
『悪いけど、また新潟へ電話をかけたいの』
と、呼び出しを頼んできたという。
この工場主は、昨日、山岡部長刑事と原刑事に対して、夜、美穂子が工場へ姿を見せたことはこたえているが、立ち寄った目的までは告げていない。
この工場での聞き込みは、浦上のほうが、捜査陣よりも先を行くことになる。
「いつものように、彼女がダイヤルした受話器を受け取り、先方に通じると、千葉さんの呼び出しを頼んだわけですね」
浦上は質問を重ねる。
浦上の緊張は、電話に出た相手を確かめたことで、弥《いや》が上にも高まってきた。そのときの相手は、いつもの女性でもなければ、千葉本人でもなかったというのである。
「あれは、ホテルではなくて、社員寮のほうへかけたのかな」
工員は、ちょっと口|籠《ご》もってから言った。
「年配の感じだったよ。うん、男の声でね。そう言えば、東北|訛《なまり》があったような気がする」
もう間違いない。それまでの呼び出しは、この一本のための伏線であり、この夜の電話のために、横手では「千葉」の偽名が必要だったのだ。
「電話をかけた日と、時間を、記憶していますか」
浦上の声は、縁台の三人がびっくりするほどに高ぶっている。
「さあてね」
三人は、その浦上に気圧《けお》されたように一瞬首を傾《かし》げたが、
「給料をもらっていたときじゃないか」
工員の一人が顔を上げた。
『二俣製作所』の支払いは月末だった。十一月の場合は三十日。
月給は一日の作業を終えてから手渡されるのが仕来たりだから、
「夜、七時ちょっと前だったかな」
工員はこたえた。
この工員が、数日前、正確には十一月三十日の午後七時前に、
『すみませんが、千葉さんを呼んでくれませんか』
と、電話の相手に申し込んでいるのだった。
「間違いありませんね」
浦上の声が、さらに大きくなった。
その電話は、これまでと違って、新潟の市外局番○二五などプッシュされてはいない。電話は○一八二と押され、新潟とは少し方向違い、横手の盆地に住む老夫婦を呼び出していたのである。
(美穂子のやつ、工作のし過ぎで、かえってぼろを出したか)
浦上は両掌を握り締めていた。�男の電話�は、本島を犯人視させる工作の、一環でもあっただろう。
「休憩時間中に、どうもおじゃましました」
浦上は、ぴょこんと頭を下げると、その場を離れた。
歩道橋を走って、二俣川駅へ戻った。
浦上は、構内の電話に飛び付き、物|凄《すご》い勢いで、県警記者クラブへかけた。