上野駅から東北へ向かうのは、東北本線だけではなかった。仙台へ抜けるまで太平洋岸を行く、常磐線があるわけだ。
�ゆうづる3号�は海沿いを走り、仙台から、本来の東北本線に合流する。
そのため、東北本線の「上野—仙台」間には、列車名が登載されていなかったのであるが、�ゆうづる3号�の出発は、常磐線のほうに明記されている。
「ほう、浦上サンにしても、やむを得ない見損じか」
谷田の表情に、生色がよみがえってきた。
浦上も同様だ。今度こそ最後だろう。美穂子は�ゆうづる3号�を利用したのに間違いない。
だが、よくよくチェックすると、この寝台特急は、奥羽本線への乗り継ぎ駅福島とは無関係な海側を走っているわけだし、一時三十四分に平駅を発車すると、東北本線との合流点であるターミナル駅仙台もノンストップで、四時四十分着の一ノ関駅まで、どこにも停車しないのである。
こうした東北本線の特急に乗っていて、朝までに奥羽本線の横手へ行くことができるのだろうか。
新しい疑問が、瞬間的に浦上をよぎった。
浦上は、時刻表の小さい数字と、駅名を追うのに疲れてきた。
一つ伸びをして、カラー印刷の、索引地図を開いた。
位置関係は、当然、こっちのほうがぴんとくる。
瞬間的な疑問は、索引地図が解消してくれた。
「そういうことですか」
浦上は自分に向かってつぶやき、再度、細かい数字が羅列されるページを開いた。ふうっと、大きな吐息が漏れていた。
「先輩、�ゆうづる3号�は、早朝五時十一分に、北上へ到着します。やっと、美穂子を横手へ連れて行くことができます」
勝利の快感は、複雑な疲労とともに、やってきた。
北上着 五時十一分 寝台特急�ゆうづる3号�
北上発 五時十三分 北上線下り(始発)
横手着 六時五十五分
ダイヤを書き出す浦上の脳裏に、四日前の横手駅が浮かんでくる。あの日�つばさ9号�を降りて跨線橋を渡ると、改札口前のホームに、二両連結の気動車がとまっていたけれど、確か、あれが北上行きだった。
「なるほどね。北上線か。確かつい先日、トンネル事故があったローカル線だな」
谷田は何度もうなずく。
「これで、藤森アパートには、朝のうちに入ることができる」
「これなら、納豆とみそ汁へのこだわりも消えます」
「今度こそ、殺人《ころし》は、十一月二十五日の朝で動かないな」
「次は、犯行後の足取りですね」
普通なら、�横手到着�で解決。裏付けは捜査陣に一任、ということになるのだが、今回は違う。
凶行後の美穂子を京都へ連れてこなければ、完全なる収束とは言えない。
「藤森アパートで、少なくとも、一時間は見る必要があるでしょうね」
「そうだな。毒入りスコッチを飲ませるにも、怪しまれないためには、話を持っていく一定の順序ってものがある」
「列車の乗り降りと、駅と藤森アパートの往復で、およそ四十分」
「ああ、どんなに急いでも、横手で一時間四十分ぐらいは、確保しておくべきだろうな」
ということで、二人の意見は一致する。
すると、十一月二十五日の時間配分は、次のような形になる。
横手駅発 八時三十五分頃
京都駅着 十四時頃
「京都」は谷田夫婦の目撃で不動。余裕を持たせるとすれば「横手」のほうだが、これも、十分や十五分短縮できたとしても、大して意味のないことが分かった。奥羽本線と北上線が交差しているとはいえ、発着列車が少ない、地方駅なのである。
北上線で行ったのだから、北上線から検討するのが、常識だろう。
六時五十五分の横手到着後、最初の上りは七時四十一分発だから無理。
次は、湯沢始発でやってくる気動車だった。幸いなことに、これは快速である。
しかも、終点北上では、六分の待ち時間で上り新幹線に連結している。
「帰りは、往路みたいに骨を折らなくとも済みそうだな」
谷田は期待の籠もったまなざしで、浦上のチェックを見守ったが、
「こりゃ、話にならないですよ」
浦上は東北新幹線のページを開いたところで、ボールペンを投げ出していた。
横手発 八時五十六分 北上線上り快速�きたかみ�
北上着 十時二十一分
北上発 十時二十七分 �やまびこ38号�
上野着 十三時二十四分
確かに、問題にならない。美穂子が、京都駅烏丸口タクシー乗り場の行列に、割り込もうとしたのは、これでいくと、上野に到着してから、わずか三十分後ではないか。
北上駅での乗り換え時間に、いかにロスがなくとも、これでは駄目だ。
が、試行錯誤を繰り返したとはいえ、東京駅と横手駅を、線で結ぶことはできたのである。
美穂子の京都到着は、必ず、横手(毒殺)経由でなければならない。新しい壁が出現したとはいえ、横手へ行くルートを割り出しただけに、さっきのような暗さは、浦上にも、谷田にも感じられない。
「オレたちが、現在利用できるもっとも速い交通は飛行機だな」
谷田は、思考の形を整理するような口の利き方をしたが、しかし、秋田—大阪間に限って、空路はうまくいかないのである。これは、美穂子の�京都—横手往復�を重視していた時点でチェック済みだ。
秋田空港発 十二時二十五分 �JAS782便�
大阪空港着 十四時四十分
大阪へ飛行する最初の便がこれでは、直行は捨てざるを得ない。
では、直行はあきらめ、いったん他の空港へ飛んで、乗り換えるというルートはないか。すぐに思い付くのは、それだ。
横手から秋田空港までは、車で一時間半だから、横手駅前を八時三十五分頃の出発とすれば、十時過ぎの便なら、搭乗可能ということになる。
大阪に近いのは、名古屋だ。しかし、秋田—名古屋間は、偶数日のみの運航だった。十一月二十五日は飛んでいない。
と、なると、期待できるのは東京乗り換えだが、これも、うまくいかなかった。
秋田空港発 八時五十分 �ANA872便�
東京空港着 九時五十五分
秋田空港発 十二時十五分 �ANA874便�
東京空港着 十三時二十分
「始発便に乗れれば文句なしですが、利用できるのが二本目の便では、これまた論外ですね」
「羽田で、十三時二十分では、手の打ちようもないか。いや、逆行してからという手が残っているぞ」
谷田は浦上を急《せ》かした。
確かに、逆行はある。札幌行きだ。
秋田空港発 十一時四十五分 �JAS84便�
千歳空港着 十二時三十五分
だが、これも無理だった。札幌から折り返す大阪行きの接続便は、一時間三十五分待たなければならないからである。
千歳空港発 十四時十分 �JAL574便�
大阪空港着 十六時五分
こうなると、秋田空港出発のこだわりは、放棄しなければなるまい。
結局、最後のルートは鉄道、奥羽本線の上り、ということになろう。
浦上は、時刻表のページを戻した。
始発は、六時三十七分に横手を出るL特急�つばさ8号�。もちろん、これは使えない。
美穂子は、青酸ソーダ入りのスコッチを白井に勧めるどころか、この時間ではまだ、横手にも到着していない。美穂子を乗せた北上線下り普通車は、横手より四つ手前の、小松川《こまつがわ》に着いた矢先だ。
犯行後の美穂子が利用できるのは、二本目のL特急ということになる。
横手発 九時二十八分 L特急�つばさ12号�
福島着 十三時七分
「何だと?」
谷田は、浦上が辿る指先を、浦上と同じように目で追いかけて、怒鳴った。
「これが二本目の特急か。これしかないのか!」
声に新しい焦燥がにじんだ。
「福島—京都間を、どうすれば一時間以内で埋められるというんだ。横手へ行くことは行けても、京都へ連れてこれないのでは、話にならん」
まさに、そのとおりだ。
(1)白井の死亡時間に錯覚を与える、絵はがきトリック
(2)旧友の正代を使っての、�銀河�見送り工作。
そして、(3)常磐線から北上線を経由する横手行きのルートは解明されたが、
「先輩、これは四重アリバイ工作ですか」
浦上はキャスターに火をつけた。
そのとき、支局長が席を立った。支局長は堪《たま》り兼《か》ねたか、がやがやした大部屋を横切って、ソファが置かれたコーナーへ、やってきた。
(ゆっくりしていると、朝刊に間に合わなくなるぞ)
小太りの支局長は、そんな表情だった。
三人寄れば文殊の知恵、でもなかろうが、その支局長が、別な手がかりを持ってきた。
「どうも、うまくいきません」
谷田が、これまでに書き出したメモを示すと、
「場所《しよば》を変えて、コーヒーでも飲んでくるかね」
支局長は、思考の切り替えを求めるよう、そう言いかけたが、そこで口調を改め、浦上と谷田の視線の、固定化を問題にしたのだった。新しい思考の切り替えを提案したことが、支局長自身に、一つのヒントを運んできたのである。
「鉄道が駄目なら、空路に戻るしかありませんな」
支局長は浦上を見、谷田を見た。
「秋田空港へのこだわりが、不発に終わったせいで、お二人とも、鉄道しか目に入らなくなったのですかな」
支局長はそうした言い方で、奥羽本線にもう一つ空港があることを指摘した。しかも、これは、秋田よりも西に位置する空港だ。
浦上はたばこを消した。
「山形ですか。そうだ、山形空港がある!」
思わず臍《ほぞ》をかむと、
「このローカル空港から、大阪へ直行便が飛んでいれば、文句なしですな」
支局長は谷田と並んで、ソファにどっかと腰を下ろした。
浦上は最後の期待を込めて、再度、航空ダイヤのページを開いた。
直行便はあった。
「山形空港—大阪空港」間は、一日に三便の�JAS�が運航されており、(日によって多少異なるが)十一月二十五日の始発は、次のようなダイヤだった。
山形空港発 十一時十分 �JAS692便�
大阪空港着 十二時三十五分
浦上は、数字を書き出す指先に、震えが走るのを感じた。
大阪空港から京都駅までは、すでにチェック済みのように、タクシーで五十分前後。美穂子は、これなら十三時三十分には、京都駅へやってくることができる。
烏丸口タクシー乗り場で、美穂子が行列に割り込もうとしたのは、十四時頃だ。山形空港から�JAS692便�に搭乗すれば、ゆうゆうと間に合うではないか。
「これが本命ですね」
浦上が口元を引き締めると、
「さすがは支局長だ、亀の甲より年の功の実践ですか」
谷田は見落としを恥じてか、減らず口をたたき、
「この便の搭乗者リストをチェックすれば、必ず、偽名の女性客が一人現われるって寸法だな」
もう一度、浦上が書き出した数字を、見詰めた。
浦上は時刻表を、改めて指で辿った。
横手を九時二十八分に発車したL特急�つばさ12号�は、十文字、湯沢、新庄と停車して行く。
山形空港の最寄り駅は、横手から向かうと山形より手前の天童《てんどう》だ。横手寄りである点も、乗り換えの時間短縮に有利と言えよう。
行きは常磐線、帰りは山形空港経由。解決してみれば、
(なるほどね)
といったルートかもしれないが、美穂子はすべて単独で、一連の偽装計画を立てたのだろうか。
浦上はそう考えながら、指先で沿線の駅を追っていたが、
「ちょ、ちょっと待ってください」
ふいに、暗いつぶやきを発した。楯岡《たておか》、天童と移動した指先が、紙面に吸い付けられたように、とまった。
「これを見てください」
時刻表を見詰める浦上の声が、何とも重いものに変わっている。
天童着 十一時二十九分
�JAS692便�の山形空港出発より十九分も遅れての、天童到着ではないか。
「本当に駄目かな」
谷田は手を上げて編集総務の給仕《こどもさん》を呼び、資料室へ行って、山形の分県地図を持ってくるよう命じた。
すぐに届いた分県地図を広げると、谷田は言った。
「山形空港は、天童よりも北だぞ、最寄り駅は天童でも、一つ手前の駅で降りて、タクシーを飛ばす手があるんじゃないか」
「そうだね。詳しいことを、山形支局へ問い合わせてみるか」
支局長も身を乗り出した。何が何でも、�JAS692便�に、美穂子を乗せなければならないのである。
だが、山形支局に電話をかけるまでもなかった。
天童の一つ手前といえば楯岡であるが、�つばさ12号�の楯岡着は、十一時十七分だったからである。
「楯岡でも、離陸後七分経《た》ってからの到着か」
「その次の便では、駄目でしょうな」
支局長の声が、力ないものに、変わってきた。
次の便は、大阪空港着が十五時四十分だから、問題外もいいところだった。
「どうしても、山形空港を十一時十分に出発しなければ駄目か」
「最有力のルートだけど、あきらめざるを得ませんね」
「福島には、空港がないか」
「仮にあったとしても、福島駅に着くのが十三時七分では、うまくいきっこありません」
「結局、山形以後大阪までの間に、残る空港と言えば、東京と名古屋だけだな」
谷田が両腕を組むと、
「福島が駄目なら、なおのこと無理だろうが、福島から仙台へ戻れば、空港が、あることはあるね」
支局長が、話の接ぎ穂のように言った。
もちろん、福島から仙台まで、北へ逆行するというのでは、期待など持てるはずもない。だが、基本となる出発点は、横手なのである。
「そう、その手が残っているかもしれませんよ」
浦上は時刻表を引き寄せ、
「それが正解なら、迷路に踏み込んでしまった、こっちが悪い」
ぶつぶつつぶやきながら開いたのは、東北新幹線のページだった。
「仙台空港—大阪空港」間が利用できるのであれば、最初のメモが生きてくる。すなわち、北上線で引き返すコースだ。
さっきの検討では、北上から上野まで、新幹線で直行してしまったので、枠外となったが、あの�やまびこ38号�は、北上を発車すると、水沢江刺《みずさわえさし》、|一ノ関《いちのせき》、古川《ふるかわ》と停車して、仙台に到着する。
仙台着は十一時十九分だ。
さて、これで都合よく運ばれるのかどうか。
ここにも、幸いなことに直行便はあった。仙台と大阪の間は、一日四便の�ANA�が結んでいる。
だが、ダイヤを書き出そうとして、
「どうにもなりませんよ!」
浦上は時刻表を叩き付けていた。
仙台空港発 九時四十分 �ANA732便�
大阪空港着 十一時五分
それが、始発便だった。
次の便は、十二時発だから、ぎりぎりで搭乗可能かもしれないが、大阪空港着が十三時二十五分。
大阪空港からざっと五十分を必要とする京都駅へ、十四時頃までに到着することはできない。新大阪へ出て、新幹線を利用するルートもあるけれど、これも駄目だった。待ち時間と乗り換え時間抜きで計算しても、(大阪空港—新大阪駅二十五分、新大阪—京都十七分)四十二分を要するのである。
「そういうことか」
支局長はしばし無言の後で、
「明日のスクープは消えたね」
ぽつんとつぶやいて、ソファから重い腰を上げた。
支局長席へ戻って行く、その小太りな後ろ姿に目を向けて、
「真犯人《ほんぼし》が美穂子で動かないのなら、もう一度、横手へ行ってみるしかないだろうな」
谷田はたばこに火をつけた。
毒殺現場である『藤森アパート』へ到着するルートは、これまでの検討で間違いないはずだ。同じ列車を乗り継いで行けば、時刻表では割り出せなかった、帰りのコースが見えてくるか。
「やってみましょう」
浦上も、机上分析の限界を感じ始めている。
どうせなら、早いほうがいい。
上野発二十三時三分なら、これから神田の『週刊広場』へ立ち寄っても、十分に間に合う。
「�ゆうづる3号�の寝台券が取れるのなら、今夜出発します」
浦上も立ち上がっていた。