夏の終わりにしては珍しい、しっとりとした降り方の雨である。
霧雨に濡れて、二人の若いOLが、松山港に近い工場街を歩いていた。
舗道はまだ明るいが、すでに、午後六時を過ぎている。OLは、急な残業で、退社が遅くなっての帰り道だった。
二人とも、松山市内を流れる石手《いして》川沿いに住んでいるので、通勤の往復には、港に近い三津《みつ》駅を利用している。
工場街の県道は、車の往来こそ絶えないものの、人影は少ない。大工場が、敷地を広く取っている地域だった。
重信《しげのぶ》川河口の右岸から、松山港へかけては、化学工業、石油製品工業、機械工業などが中心になっており、海岸沿いに、丸善石油、大阪曹達、帝人化成その他、大規模な近代工場が、ずらっと並んでいる。
その工場街の舗道を、重信川の方向から、スピードを上げて、一台の乗用車が走ってきた。ダークブルーのセドリックだ。
セドリックは二人のOLを追い抜くと、十字路を左折して、急ブレーキをかけた。
十字路を左へ曲がったところは、工場の高いブロック塀がつづいており、まったく人気がなかった。ダークブルーの車は、ブロック塀にぶつかるようにしてとまった。
ハンドルを握っているのは、背中までもある長い髪の女だった。そして、助手席にはブルゾンの男がいる。
二人のOLは、急停車した乗用車に何気なく目を向けて、十字路を渡りかけたが、どちらからともなく、道路に足を吸い込まれるようにして、立ちどまっていた。
(まさか!)
二人は申し合わせたように、目を凝《こ》らした。
見間違いではなかった。
ブルゾンの男が、いきなり運転席の女に襲いかかったのである。
それは、愛情表現として、女性を抱き寄せるのとは、明らかに違っていた。
そう、男はベルトらしきものを手にして、それを女の首に巻き付けようとしているのだった。
「どうしよう!」
「早く、早くだれかに知らせなければ!」
二人は乾いた声で口走ったが、実際には何もできなかった。
咄嗟《とつさ》のことではあるし、初めて見る、信じられないような恐しい光景に、我を失っていた。
こうした状態を、金縛《かなしば》りに遇《あ》ったというのかもしれない。
二人は身動きもとれず、かと言って、視線を、車からそらすこともできなくなっていた。
乗用車内の争いは、しかし、一瞬だった。
ふいを衝《つ》かれた女は、車を運転してきたこともあって、体勢を変えることができず、男の力を避けることができなかった。
男は、女の首に巻き付けたベルトの、両端を引っ張った。
「ぎゃあ!」
車のドア越しに、女の悲鳴が聞こえてくるような気がしたが、それが実際に耳にした絶叫であったのかどうか、二人のOLには分からない。
分かるのは、お互いの全身が硬直していることだけだった。
二人のOLの凝固した視野の中で、事態は正確に急変した。
女は、長い髪を乱し、崩れるようにしてハンドルに寄りかかった。
全身の力が抜けた感じだった。
一瞬の犯行は完了したのである。
ブルゾンの男は、女の首にベルトを巻き付けたまま、霧雨の道路に出てきた。ショルダーバッグと、大きい紙袋を手にした中背の男だった。
男は乗用車のドアを締めるとき、十字路に佇《たたず》む二人に気付いた。
双方の距離は十メートルほどしかなかっただろう。
「うん?」
男は、当然びっくりしたような顔をした。
だが、二人のOLは、その男の表情の変化もまた、しかとは捕らえていなかった。
恐怖が先に立っている。
相手は、たったいま女性の首を締め上げた殺人者なのだ。
二人のOLは路傍で、思わず掌を握り合っていた。二人の掌には、かつて経験したこともない、冷たい汗がにじんでいる。
だから、後で、捜査本部から男の似顔絵作成協力を求められても、二人は、ほとんど役に立てなかった。
証言できたのは、男が茶色っぽいブルゾンを着ていたこと、ショルダーバッグと大きい紙袋を手にしていたこと、背丈が、男性にしては高くなかった、というていどに過ぎない。
もちろん、男の年齢も、定かには見極めていなかった。
OLの一人は、
「四十歳ぐらいではなかったでしょうか」
と、言い、もう一人は、
「三十前後だったと思います」
と、こたえた。
霧雨の中へ出てきた男は、そこにいる二人に気付いて、ぎょっとしたような目をしたが、しかし、手は出さなかった。
男は顔を伏せ、二人の横を通り過ぎると、中背の後ろ姿を見せて、全速力で、海岸通りを三津浜港の方角へ駆け去って行ったのである。現場から港まで、走れば五分とかからない。
二人のOLがようやく我に返り、近くの工場の守衛室に飛び込んだのは、それからどのくらいが経ってからであろうか。実際には三分と過ぎていなかったはずだが、男の後ろ姿が、完全に視野から消えた後だったことだけは、間違いない。
八月三十日、水曜日。
愛媛県警通信指令室へ、一一〇番通報が入ったのは、午後六時三十四分である。ただちに所轄松山南署の出動となった。
三台のパトカーと、一台のジープが出た。
先頭車には署長と刑事課長ら幹部が顔をそろえ、二台目のパトカーの助手席には、ベテランの矢島《やじま》部長刑事が乗り込んでいた。
鑑識《かんしき》係も含めて、総勢二十三名。
これだけの捜査員を投入したのは、犯人が、まだそれほど遠くへは逃亡していないという、状況ゆえだった。