乗用車を運転していた女は、運転免許証を所持していたからである。
凶行後、犯人には、免許証を持ち去る余裕がなかったのだろうか。それとも、女の身元を隠蔽《いんぺい》する必要がなかった、ということか。
免許証は、最近再交付されたものだった。
高橋美津枝《たかはしみつえ》 二十八歳 横浜市保土ケ谷区上星川町九七三八『井田マンション』21号
本籍は、高知県|香美《かみ》郡|土佐山田《とさやまだ》町五七、と記されているが、結婚しているのか、職業を持っている女性なのか、免許証だけでは分からない。
一目で確認できたのは、高橋美津枝という被害者が、相当な美人であることだった。色白な肌だった。
鼻筋が通っている。
身長は一メートル六十二。やせ型で、プロポーションも素晴らしかったが、服装のセンスがよかった。白い麻のワンピースを、サハリっぽく着こなしているのである。
サハリっぽく感じられるのは、幅広の革メッシュのベルトと、スカーフのせいだった。
「やっぱ、都会へ出た女性は違うね」
と、つぶやいたのは、矢島部長刑事だ。四十九歳になる今日まで、私服一筋に生きてきた、ごっつい顔のベテランは、これまでにも、何度も、女性のホトケさんにお目にかかっている。
だが、高橋美津枝は、ちょっと異なるようだ。息絶えてもなお、生前の美しさを、そのまま保っているのである。
城下町松山は人口四十三万。四国第一の都市だが、人口三百十万を超える大都市横浜との相違を、死者の美貌と服装のセンスのよさに託して、
「本籍は四国でも、都会暮らしが長かった女性なのだろうな」
と、矢島は繰り返した。
美津枝が旅行中であることは分かったが、所持品はポシェットと、それほど大きくもないショルダーバッグだけで、着替えなどは見当たらない。
長い旅程ではなかったのか。
他に、乗用車の中から押収されたのは、次の三点だった。
凶器である、男物の革ベルト一本
真新しい、愛媛県の分県地図一冊
なぜか、将棋の王将駒一枚
犯行に関係があると思われる真新しい指紋は、助手席のドアその他から、数点が検出された。
そして、犯行に用いられたこのダークブルーのセドリックは、レンタカーだった。美津枝のポシェットの中に残っていたレシートから、JR松山駅の南側、竹原町の営業所で借りたものと分かった。
矢島部長刑事は、長い塀を一回りして、工場の守衛室へ飛んで行った。
守衛室の電話でレンタカーの営業所へ問い合わせると、貸し出したのは、犯行寸前、今日の午後六時であり、
「二十四時間の約束でした。セドリックの車種はDですので、免責補償料と搭乗者傷害補償料込みで、二万二千六百円が前払いされています」
と、先方はこたえた。
「車を借りたとき、男が同行していませんでしたか。茶系統のブルゾンを着た、中背の男ですが」
「いいえ。見えられたのは、きれいなご婦人が、お一人だけでしたよ。あの、何か事故でも起こしたのですか」
「後程、もう一度連絡します」
矢島は手短かに電話を切った。
守衛室を出て霧雨の舗道へ戻ると、遺体は、搬送車に移されるところだった。
現場での行政検視は終了し、これから、警察医立ち合いの司法検視、そして、司法解剖という段取りになる。