松山南署三階大会議室のドアに、長い張り紙が下がった。
「レンタカー女性絞殺事件捜査本部」
署長を本部長とする第一回目の捜査会議は、午前九時から開始された。県警捜査一課からも、課長以下五人のベテランが、参加した。
昨夕の霧雨は上がり、松山南署の三階から見える三津浜港には、夏の終わりの日差しが戻っている。しかし、気温は高くなかったし、青空に浮かぶ雲の形は、すでに秋のそれだった。
会議は、司法解剖の報告から始まった。
死因は頸部《けいぶ》圧迫による窒息死。死亡推定時刻は、目撃者の証言どおり、八月三十日午後六時三十分頃という結論だった。
つづいて、刑事課長が黒板の前へ進み出て、昨夕の張り込みの経緯を説明した。
松山港周辺、伊予鉄|大手町《おおてまち》駅、松山市駅、JR松山駅などの手配は迅速だったが、
「残念ながら、それらしき男は網に引っ掛かってきませんでした」
と、刑事課長がつづけたとき、東京から電話が入った。
警察庁指紋センターの、コンピューターによる照合結果は、弓状紋も変体紋も「前科、前歴なし」だった。
署長によって電話の内容が紹介されると、ふっと、吐息に似たものが、会議室全体を覆った。凶器に指紋を残さないという行為は、犯人《ほし》に前科《まえ》があることを意味する。だれもが、そう思っていたためだ。前科《まえ》に期待していたためである。
「駄目か」
正面席の捜査一課長が、一同を代表するように、憮然とした面持ちでつぶやいた。
そう、前科がないのなら、指紋からの直截的《ちよくせつてき》な氏名割り出しは不可能となる。
だが、そうは言っても、犯行現場に遺留された指紋が、大きい価値を示していることは変わりがない。
異なる二種類の指紋は、いかなる意味を持つのか。
殺人《ころし》の実行犯が、一人だったことは間違いない。
変体紋と弓状紋。どっちが実行犯の指紋か。
どちらも、その可能性を秘めている。
助手席のドアに残る変体紋を犯人と決めつける場合は、レンタカーに乗り込むときの男は素手だったのではないか、という見方だ。手袋は、犯行に及ぶ際、(恐らくは大きな紙袋に忍ばせてきたのであろう)ベルトを取り出すときに、初めて着用したということだ。
「うん、何しろ八月だからね、一般の人間が夏に手袋などしていれば変に思われる」
と、変体紋犯人説に耳を傾けたのは、署長だ。
留意はしていても、乗車のときに手袋をしていなければ、うっかり指紋を残すこともあろう、というわけである。
しかし、それはどうか。殺人に際して手袋を着用するほど慎重な犯人が、車内のどこかへ不注意に、素手で触れたりするだろうか、と、反対意見を述べる刑事もいた。
だが、そのような犯人にしても、分県地図と王将駒は別だった。これは、犯行に熱中するあまり、落としたのに気付かなかったのであり、落とす気持ちなど毛頭なかったので、指紋を消す必要がなかったのだろう、と、その刑事は言った。
そう、地図と駒から検出された弓状紋を犯人に擬する場合は、そうした解釈となる。この意見も捨て難い。
その分県地図には、もう一つの発見があった。
紙ケースの中には、多色刷りの地図の他に、愛媛県を紹介する二十ページほどのパンフレットが同封されている。そのパンフレットの表紙裏に、ボールペンの小さい記名があった。
物証を説明する時点で、
「週刊広場・浦上《うらがみ》と読めます」
鑑識係は透明なビニールの袋に入れた証拠品のパンフレットを提示し、
「このパンフレットの、ページのあちこちからも、同一の弓状紋が検出されました」
と、報告した。
「週刊広場・浦上」の文字は、所有者の名前と考えていいようである。
すると、弓状紋の男は、「浦上」ということになるのか。いずれにしても、ブルゾンの男と、まったく無関係ということはないだろう。
これは重要な手がかりだ。
「週刊広場なら、一流誌ですよ」
と、矢島部長刑事が言った。
とりあえずの突破口は、高橋美津枝という死者本人と、『週刊広場』の浦上ということになろうか。
「よし、それからいこう」
署長はその場で、「浦上」の調査を矢島に命じた。
矢島は一人会議の席を離れると、港を見下ろす窓際で、電話を取った。
東京の一〇四番に問い合わせると、『週刊広場』の電話番号はすぐに分かった。そして、浦上が『週刊広場』の関係者であることも判明したけれど、編集部には、まだ主だった社員が出勤していなかった。
「はい、編集長の出社は、午前十一時頃になります」
と、女子社員がこたえた。夜が遅い編集者は、一般のサラリーマンとは違うのである。
「実はですな」
矢島部長刑事が、差し障りのないていどに電話をかけた目的を告げると、
「あ、それでしたら、編集長よりも、副編集長のほうが詳しく承知していると思います」
女子社員はそうこたえて、青木《あおき》という副編集長の、自宅電話番号を教えてくれた。
その、千葉の自宅へかけ直すと、
「松山南署ですか。おかしいな、今回の浦上君の取材は、警察には関係ないはずですが」
青木は自分自身に話しかけるようにつぶやいてから、矢島の質問にこたえた。
その最初の説明を耳にしたとき、
「何ですって?」
ごっつい顔の部長刑事は、ベテランらしくない甲高い声を発していた。会議をつづける捜査員たちが、一斉に、窓際に目を向けたほどである。
「ふん、ふん、それで?」
と、メモを取りながらの電話はつづいた。
「分かりました。ホテル松山ですな」
矢島は、最後にそう念を押して、受話器を戻した。
署長への報告は、もう一本、地元の『ホテル松山』へ電話を入れてからになった。『ホテル松山』は一流シティーホテルだ。こっちは、短い通話で終わった。
「大変なことになりました」
矢島は興奮したまなざしで、会議の自分の席に戻った。
「浦上という男、いま、松山にいます」
矢島は走り書きのメモを長机の上に広げ、立ったまま話し始めた。
「浦上|伸介《しんすけ》、独身の三十二歳。正社員ではありませんが、週刊広場へ常時寄稿している、フリーのルポライターです」
「ずばり、浮上してきたのか」
と、署長が尋ねると、
「ずばりなんてものではありません」
ベテランの声が、また高くなった。
「浦上は中背の男です。もちろん、冬物と夏物の違いはあるでしょうが、四季を通じて、茶系統のブルゾンを愛用しているそうです。そして、取材に出かけるときは、必ずショルダーバッグだそうです」
「外観は、犯人《ほし》と同じ、ということになるな」
「その上、学生時代からの、唯一の趣味が将棋です。現在でも、仕事が入っていないときは、東京都内の新宿とか渋谷の将棋センターに通い詰めており、アマチュアの四段という話です」
「なるほど。普通の人間は、将棋駒など持ち歩かないだろうが、アマチュアでも四段クラスとなると、現場に駒が落ちていたことの説明もつくか」
「それだけではありません。この浦上という男、副編集長の話によると、昨日の犯行時刻、松山港にいたはずだというのです」
「何だと?」
署長の声も高くなり、全員の視線が、改めて、矢島部長刑事に集中した。
「浦上は、一昨日の午後は週刊広場の企画会議に出席。昨日四国へ渡ってきたそうです」
矢島は、自分の走り書きに目を落としてつづける。
「週刊広場では、バカンス追跡をテーマに、夏の終わりの城下町という企画を立てましてね、東北、九州など、手分けして取材中です」
「浦上というルポライターの分担が、四国か」
「四国へは、瀬戸大橋から入ってくるルートが、一般的でしょう。しかし、特色を出そうと浦上が主張して、言うなれば逆コースを採用したのだそうです」
「浦上の主張?」
「ええ。浦上は、松山、宇和島《うわじま》、高知、高松《たかまつ》の順で取材を進め、瀬戸大橋を渡って帰るシーンを、レポートの締め括《くく》りにする腹案とか」
「ルポライターのアイデアを、編集部が認めたのだね」
「浦上はウデのいいライターなので、編集部でも、あるていど一任することが多いそうです」
「浦上の提案が、昨日の殺人《ころし》を含みにしていたってことも、有り得るだろうな」
と、一課長がつぶやき、
「で、昨日が、松山市内の取材日ということになっていたのかね」
と、署長が訊いた。
矢島は手にしたメモを見ようともせずに、
「松山の取材は今日です。浦上は昨日の朝、新幹線で東京を出発。広島の宇品港から、夕方のフェリーで瀬戸内海を渡ってきました」
と、こたえた。
留意すべきは、浦上が松山港へ到着した時間だ。事前に浦上が予約したのは、三津浜港へ十八時に接岸する石崎汽船だったのである。
「十八時? 午後六時か」
署長の口調が一段と厳しくなった。
まさに、ぴったりではないか。高橋美津枝の運転するレンタカーが、犯行現場で停車したのは、午後六時二十六分頃だ。
六時に下船して松山の地を踏《ふ》んだ浦上は、どこで、レンタカーに乗り込んだのか。美津枝が、JR松山駅近くの営業所からダークブルーのセドリックを借り出したのは午後六時だから、浦上の到着に合わせてのものだった、と考えるのは容易だろう。
美津枝は絞殺されるとも知らず、浦上との約束の場所へ車を回す。
助手席に乗り込んだ浦上は、(事前に下見しておいたであろう)人気のない工場街で車をとめさせる。そして、一瞬の凶行を完了して、逃亡する。
「そのとおりだとすれば、この男は、およそ時間を無駄なく使って、ホテルに向かっています」
と、矢島は、自らの推理も交じえて、言った。
あるいは、大きい紙袋の中には、ブレザーとかネクタイが、用意されていたのかもしれない。逃亡の途中でブルゾンを脱ぎ、ネクタイを締めてブレザーに着替えれば、印象は一変する。
浦上は簡単な変装で、追跡の目をはぐらかしたということになろうか。変装して、三津浜港か三津駅前でタクシーでも拾ったか。
もちろん、タクシーをホテルに横付けするようなことはしまい。すべてが、計画的に実施され、変装の上、ホテルとは異なる場所で降りたのなら、タクシーの聞き込みも難しいだろう。
浦上が東京から予約してあった『ホテル松山』は、松山城の先の一番町だ。
「いま、電話で確認を取りました。浦上は今朝八時五十分にチェックアウトしていますが、昨日のチェックインは、午後七時五分ということです」
「六時に船を下りて、七時少し過ぎのチェックインなら、時間的に、何ら不自然ではないね」
「そうです。三津からは伊予鉄かバスを利用して、市内へ入ってからは、堀端をぶらぶら歩いてきたとでも説明すれば、ちょうどそのぐらいな時間になります」
「その間に殺人タイムが含まれているなんて、ちょっと想像もできないか」
「事実浦上が真犯人《ほんぼし》なら、いずれアリバイ主張に役立たせるつもりの、時間配分でしょうね。ともかく、時間の使い方に、無駄がありません」
と、ベテランは強調する。
狙撃手が標的を意のままに動かしていたのなら、計画犯行もやすやすと成立させることができる。
しかし、自由に操れるとなると、浦上と美津枝は、相当に親しい関係にあったことになろう。ならば、その線から洗うという方法がある。
次に矢島は、『週刊広場』の青木副編集長が掌握している、浦上伸介の取材日程について報告した。
それによると、昨日八月三十日は松山泊まり、以後、宇和島、高知、高松とそれぞれ一泊ずつして、九月三日、日曜日の夜、浦上は二十時三十二分発の寝台特急�瀬戸�で高松を出発。翌九月四日、月曜日の朝七時九分に東京へ帰ることになっていた。
「今日の、松山市内の取材先は決まっているのかね」
「そこまでは、分からないそうです」
「松山駅に張り込むか」
浦上が犯行と無関係ならば、逃げ隠れする必要はない。予定どおりに松山のスケジュールをこなして、次の目的地である宇和島へ向かうだろう。
そしてまた、実際に美津枝を襲った真犯人《ほんぼし》であったとしたら、巧妙な時間配分からいっても、(無実を主張するために)当初の予定に沿って、行動するはずだ。
「駅よりも確実な張り込み先は、宇和島のホテルです」
と、矢島はメモを持ち直した。
二泊目の予約は、宇和島城に近い中央町の、『ニュー宇和島ホテル』となっているが、松山駅を何時に出発するか、それは決まっていなかった。
それに、浦上が三十二歳で中背の男であることは分かっても、捜査本部にとって、顔形ははっきりしていないのである。
浦上の移動が間違いないところなら、すなわち、逃亡の心配がないのなら、矢島が言うように、宇和島のホテルを張り込むほうが適確だろう。
「そうだね」
署長もすぐに同意した。
「いずれにしても、いまは、この男のシロクロをはっきりさせるのが先決だ」
署長は改めて、矢島の顔を見た。
宇和島出張は、行き掛り上、矢島が分担することに決まった。