次長席背後の壁に掛かっている大時計は、午後七時二十分を指している。
当直警部と、三、四人の制服巡査の姿が見えるだけの署内はがらんとしている。
当然、事前の打ち合わせは済んでいたのだろう、
「ご面倒をかけます」
矢島部長刑事は、警部に声をかけて、若い刑事ともども、浦上を二階へ同行した。
二階の刑事課も、人影が少ない。
しかし、宿直の刑事の他に、鑑識《かんしき》係が待機していた。浦上の筆跡と、浦上の指紋入手が目的なのは明白である。
「協力しますよ。何よりもすっきりしたいのは、このぼく自身ですからね」
浦上は苦笑し、言われるままに「週刊広場・浦上」の文字を書き、黒いスタンプインキでの指紋採取に応じた。
奇妙で、複雑な気持ちだった。
そうすることによって、(何ともばかばかしい)無実は証明されるわけだが、四国の西の果ての、ひっそりした夜の警察署で、こんな目に遇っている光景を谷田先輩に目撃されたら、また、真顔で笑われるだろう。
浦上は、そうしたことを考えながら、作業を終えた。
鑑識係はその場で、浦上の目の前で、筆跡と指紋を、松山南署から持参したコピーと突き合わせた。
操作に、時間はかからなかった。
鑑識係が矢島部長刑事を見て、
(違いますね)
というように顔を横に振ったのは、筆跡を照合したときだった。
浦上自身ものぞき込んだが、それは、(当然なことに)浦上のものではなかった。浦上はゴシック調のきちょうめんな文字だが、コピーのそれは、まったく違った。頼りなく書き流したような、影の薄い筆致なのである。
指紋のチェックが終えたら、急いでホテルへ引き返したい。シャワーを浴びて、一刻も早く、夜の町へ出たい。
東京や横浜と違って、こうした地方都市は夜が早い。ゆっくりしてはいられない。
いや、その前に、このごっつい顔の部長刑事に、最敬礼させねばなるまい。
(待てよ。謝罪を要求する代わりに、情報《ねた》を提供させるってのはどうか)
浦上はそんなことも考えた。こうして、刑事課で時間を過ごしているうちに頭をもたげてきた、職業意識である。
殺されたのが美人なら、使えるかもしれない。しかも、旅先のレンタカーで絞殺された美女が横浜在住者で、浦上がこうした妙な形で参加させられたとあっては、谷田もやる気を出すだろうし、『週刊広場』の細波《ほそなみ》編集長も乗ってくるに違いない。
(よし、おまけだ。昨夕の殺人事件も、一緒に取材して帰るか)
浦上はキャスターをくわえた。
気乗り薄な城下町の取材とは異なり、事件物というと、顔の輝きからして違ってくるから現金なものだ。
しかし、浦上は、ゆっくりとたばこをくゆらすことを許されなかった。
鑑識係の横顔が、次第と、厳しさを増してきたためである。
鑑識係は口元を引き締め、念のためにルーペまで持ち出したが、ルーペをのぞくまでもなかった。
鑑識係は、指紋に目を落としたままの姿勢で言った。
「矢島さん、殺人現場の遺留指紋は、この人のものです」
緊張を隠すためか、無理に抑揚を欠いた話し方になっている。
「確認してください。ぴたり、同じ弓状紋です」
「何ですって?」
浦上がたばこを消すのと、
「困ったことになりましたな」
矢島が、浦上の顔を見詰めたのが同時だった。
鑑識係は、浦上と二人の刑事の前に、改めて指紋を置いた。
間違いなかった。
コピーと、そしていま採取したばかりの指紋が、寸分違わないものであることは、浦上にも分かった。
こんなことがあろうか。いや、これはどういうことなんだ?
「はっきりしたものとして、王将駒から検出されたのは二点だけですが、地図のほうは、これは数え切れないほどの、弓状紋が付着していましたよ」
と、説明する矢島の声は、勝者のそれだった。
「これだけたくさんの指紋が採取されたということは、分県地図が、あんたの所有物であることの証明ではありませんかな。何せ、パンフレットの、ページの中からも出てきたのですよ」
「知りません。ぼくは、本当に、そうした地図など持ったことはありません」
浦上は繰り返した。
それは、うそ偽りなんかではない、事実なのだ。
しかし、百万言を弄《ろう》そうとも、当事者の弁では、説得力を欠くのが当然である。
「あんたもルポライターなら、物証ということばを、ご存じですな」
と、つづける部長刑事の表情には、余裕が出ている。
「浦上さん、どうやら、泊まっていただくことになりますね」
「何を言うのですか!」
浦上は口走った。頭に血が上ってくるのを知った。
瞬時に整理しろと言われても無理だ。
なぜ自分の指紋が、見たことも触れたこともない、他人の分県地図に、大量に付着していたのか。
その説明が付かない限り、自分は被疑者として留置されてしまうのか。
しかも、この場合は、見たことも所持したこともない、と、事実を強調したことがまた、不利な結果を招いてしまったのである。
矢島の口調が険しくなった。
「浦上さん、それがあんたの所有物であったというのなら、他の場所で落としたか盗まれた地図が、犯人《ほし》によって現場へ運ばれたということを、考えてもいいでしょう。だが、そうじゃない。あんたが言うように、いままで手を触れたこともない地図なら、事前にあんたの指紋が付着するわけはない」
「地図もそうですが、将棋駒だって、ぼくのものではありませんよ。ぼくには、駒を持ち歩く習慣などありません」
と、これも事実をそのまま伝えたが、刑事は聞く耳を持たなかった。
「おかしいじゃないですか。あなたの駒でないのに、なぜ、あなたの指紋が出てきたのですか」
と、これは、それまで黙っていた若い刑事の発言である。
「何が何だか分かりませんが」
と、浦上は言いかけて、口籠《くちご》もった。主張したかったのは、それが、レンタカーのハンドルとかドアから検出された指紋ではない、ということだった。
すなわち、王将駒も分県地図も、簡単に移動できる物証なのである。実行犯が持参して、意図的に遺留していくことが可能だ。
浦上がそれを訴えかけてやめたのは、(物証移動の解釈はもちろん成立するけれど)なぜ、自分の指紋が駒や分県地図に残っていたのか、その見当が、まったくつかなかったためである。
しかも、地図のほうは、大量の指紋というではないか。
「泊まっていけって、逮捕令状が用意されているのですか」
浦上が苦し気につぶやくと、
「あんたが、そんなこと知らないわけはないでしょう。緊急逮捕の場合は、逮捕直後に裁判官に令状を求めれば、事足りることになっています」
矢島は事務的な、冷たい言い方をした。
浦上は、頭に血が上ったままだ。こんな不合理に見舞われたのは、三十二年の人生で、もちろん初めてである。
かっかした脳裏に浮かんでくるのは、先輩谷田の顔だった。
不条理ではあるが、いずれ、弁護士などを頼むような事態になるかもしれない。しかし、どのようなことになろうと、ここは一番、先輩に泣きつくしかあるまい。
「横浜へ、電話をかけさせてくれませんか」
「あんたは東京の人だよね。週刊広場も、無論東京だ。横浜へ電話するというのは、殺された高橋美津枝さんの、関係者にでも連絡を取るつもりかね」
「まだそんなこと言ってるのですか!」
浦上は思わず両掌を握り締めたが、いきり立つ自分を、懸命に制した。
昨夕、松山港へ到着したのが、犯行にぴったりのタイミングであり、その上、指紋という�物証�まで突きつけられては、正面切って、声を荒立てられる立場ではなかった。
その代わり、浦上の口を衝《つ》いて出たのは、神奈川県警捜査一課淡路警部の名前だった。そう、泣きつくのなら、新聞記者よりも、一課の課長補佐のほうが、有利に決まっている。
浦上は、矢島の硬化した態度を見て、考えを変えた。
「神奈川県警の淡路警部?」
矢島の表情が動いた。
矢島は当然なことに、本件の捜査協力の、神奈川サイドの責任者が、淡路警部であることを承知している。
「あんたは、淡路警部の知り合いかね」
「最初は取材で、お近付きになったのですが、以来、長いことおつきあいしてもらっています。いまでは、一課の課長補佐と週刊誌の記者を越える、深い交流を持っています」
浦上は、あえて「深い交流」に力を入れて言った。
「淡路警部に問い合わせてください。そうすれば、ぼくが犯罪を起こすような人間かどうか、分かってもらえると思います」
浦上は必死だった。
こんな釈然としない状況で、臭いメシを食わされては堪《たま》らない。
「淡路警部ねえ」
矢島部長刑事は、ちらっと若い刑事と視線を交わし、
「当たってみよう」
そう言い残して、刑事課を出て行った。捜査本部長である松山南署の、署長の指示を仰ぐためだった。
こうした相談は、浦上当人の前でするわけにはいかない。
そこで、矢島は一階に下り、警務課の電話で、松山南署を呼び出した。