浦上の内面に、判然としない黒雲だけが広がっていく。
午後七時半を回ったこの時間では、淡路警部は、県警本部を帰った後かもしれない。警部に連絡がとれなければ、いかに理不尽であろうとも、今夜は、四国最西端の警察署に留置されることになるのか。
それにしても、だれが、何のために仕掛けた指紋工作なのか。
浦上の内面の黒雲が、さらに厚みを増したとき、矢島部長刑事が、がらんとした刑事課へ戻ってきた。
浦上には長い時間と感じられたが、矢島が実際に席を外していたのは、十五分足らずだったろうか。
「浦上さん、ついていましたね。月末ということもあって、淡路警部はこの時間なのに、捜査一課で会議をしていました」
矢島は、松山南署を経由して、神奈川県警に連絡がとれたことを言った。
「ついていた」はないだろうが、ごっつい顔に、さっきとは別の表情が浮かんでいるのを見て、浦上は、話がうまく運ばれたことを察した。
矢島は、結論から先に言った。
「浦上さん、ニュー宇和島ホテルへ引き上げても結構です。私たちも最終の急行で、今夜は松山へ帰ります」
「淡路警部が、ぼくの身元を引き受けてくれたのですね」
浦上はほっとしたようにキャスターをくわえ、ゆっくりと火をつけた。
「じゃ、私はこれで」
と、鑑識係は立ち上がった。
矢島はその鑑識係に礼を言って見送ってから、改めて、浦上と向かい合った。
「率直に言っておきます。淡路警部の口添えがあったからといって、指紋の説明がつかない限り、あんたにかけられた疑惑が、すべて解消したわけではありません」
「真犯人の意図やトリックが何であるのかは分かりませんが、ぼくが罠《わな》にかけられたのは事実でしょう」
浦上が目の前の二人を交互に見て、
「ルポライターとして、ぼくもやります」
と、決意を語ると、
「あんたの主張を、鵜呑《うの》みにすれば、確かに罠ということにもなりますかな」
矢島は、奥歯に物のはさまった言い方ながら、明らかに、さっきまでとは態度を変えていた。
矢島が若い刑事を同行して宇和島へ出張していた間に、松山の捜査に、一つの進展があったのだ。
松山南署長が、浦上の�釈放�を矢島に指示したのは、(淡路警部の身元保証もさることながら)その�進展�ゆえだった。
午後の聞き込み捜査で、凶器の、ベルトの販売元が、早くも割れたのである。それは、松山中央郵便局に近い千舟町の、大手スーパーストアだった。
ベルトが特定できたのは、疵物《きずもの》の特価品だったせいである。
ベルトは、バックルの飾りが微妙に剥《は》げ落ちており、その疵の特徴を、スーパーの店員ははっきりと覚えていた。
「はい、当店で扱った商品に間違いありません。このベルトは、一昨日の午後、お買い上げいただいたものです」
店員は自信を持ってこたえた。販売後二日しか経っていないので、記憶もはっきりしている。
一昨日といえば、八月二十九日。殺人の前日だ。
特価品売り場の、レジを照合した結果もそのとおりだった。千五百円の男物のベルトは、二十九日の十三時三十二分に売られていることが確定された。
しかも店員は、買い上げて行った客の風貌を、しかと覚えていたのである。店員は刑事の質問にこたえて言った。
「年齢は三十代半ば、いえ、四十歳ぐらいだったでしょうか。ええ、背は高くなかったですよ。中背の男性でした」
だが、この男は、茶のブルゾンではなかった。
八月だというのに、きちんとネクタイを結び、見るからに仕立てのいいスーツを着た紳士だったという。
その高級なスーツに、特価品のベルトが不釣合だったことも、店員に客を記憶させる遠因となった。
この男が真犯人《ほんぼし》なら、(すでに捜査会議でも話に出たように)安物のベルトは、飽くまでも凶器として、購入されたことになろうか。
この聞き込みは、貴重だった。単に、販売元発見以上の、大きい意味を持っている。
その一つは、中背の男が、殺人を急報した二人のOL以外の人間によっても目撃されているということである。
そして、肝心なのは、それが、目下のところの第一容疑者、浦上伸介とは別人であるということだった。
すなわち、高級スーツの男が、千舟町にある大手スーパーの特価品売り場へやってきた時間(二十九日午後一時三十二分)、浦上は、まだ松山へは到着していなかったからである。
一昨日の午後、浦上が『週刊広場』の企画会議に出席していたことは、今朝方、青木副編集長にかけた電話で、他でもない矢島部長刑事自身が確認している。
スーパーストアに現われた男は、浦上ではない。それが、署長が浦上の�釈放�を指示した最大の要因であるが、しかし、件《くだん》の男が真犯人《ほんぼし》であるなら、浦上と、何らかのかかわりを持つ可能性はあるだろう。浦上の名前と指紋を、現場に残していったのだから。
「明朝にでも、もっと詳しいことを伺《うかが》いたいのですが、予定どおり、高知へ向かうつもりですか」
「とんでもない」
浦上は言下に否定した。
「いまも言ったでしょう。刑事さんの前ですが、ぼくなりに、事件を追及しないわけにはいきません。この宇和島もそうですが、高知と高松の取材は、だれかに代わってもらいます」
浦上は、自分自身に言い聞かせるような口調になっていた。
万一、細波編集長の反対に遇ったとしても、明日は松山へ引き返してやる。浦上はそう思った。
そして、それは、矢島部長刑事にとっても都合のいいことだった。
こうして、奇妙な�被疑者�と刑事は、この場はいったん別れた。