高橋美津枝の実兄一夫は、『週刊広場』特派記者浦上伸介の名刺を受け取ると、思わず、浦上の顔を見返していた。
「あなたのお名前は、昨日、松山の捜査本部で聞きました。ここへは、松山から回ってきたのですか」
一夫は一方的に言った。
一夫は土地の人間らしい純朴な感じだが、背は高く、顔立ちが整っている。殺された美津枝の、美貌を連想させる顔だった。
しかし、その顔に、不審が広がっているのを、浦上は見た。
それも当然だろう、一夫は松山南署の捜査本部で、「浦上伸介」の名前を、容疑者の一人として聞かされたのだ。
「浦上さん、あなたは美津枝とどういう関係だったのですか。いつからの、おつきあいですか」
一夫のほうから問いかけてきた。
浦上がその実兄を納得させるには、少なからぬ時間が必要だった。
「ぼくは、妹さんにお会いしたこともなければ、名前も存じ上げません。実は、ぼくも被害者です」
浦上は取材帳を開き、順序を立てて自分の立場を話した。
一夫の表情が、話を聞いているうちに少しずつ変わってきた。
それまでは外階段の、踊り場での立ち話だったのだが、
「ま、お上がりになって、お茶でも飲んでください」
と、一夫が折れたのは、浦上の釈明というか説明と、浦上の人柄からくる誠意を、それなりに汲み取ってのことのようだった。
浦上は、大勢の人々が出入りする二階へ上がった。
古い食堂は畳敷きだった。三十畳ほどの広さだろうか。
正面に祭壇ができており、美津枝の顔写真が飾られてあった。笑みを浮かべた、長い髪の写真である。
なるほど、美人だった。
浦上は松山を離れたときと同じような、何とも複雑な思いで、祭壇に向かって両掌を合わせた。浦上がいま、南国の秘境と呼ばれる龍河洞のふもとで、こうして弔いの場を訪れたのも、すべて、訳の分からない罠のせいである。
美津枝は一昨日の夕方まで、浦上とはまったく関係がなかった女性だ。
このような奇妙なめぐりあわせがなければ、浦上は、あるいは一生、土佐山田という土地へ来ることもなかったであろう。
「刑事さんにも申し上げましたが、妹がどのような男性と交際していたのか、私はまったく知りません」
一夫がそう語ったのは、浦上の焼香が終えてからだった。
窓際に置かれた長テーブルで、浦上は改めて純朴な兄と向かい合ったが、美津枝の交際相手を全然知らないというのでは、質疑は、すでに終えたも同じだった。
それでも浦上は、松山南署で入手したわずかなデータを敷衍《ふえん》する形で、食い下がってみた。
「美津枝さんが、ご家族に向かって、初めて結婚を口にされたのは、二年前と聞きましたが」
「それは、そのとおりです。しかし、結納《ゆいのう》を交わすとか、どなたかに仲へ立っていただくというような話ではありませんでした」
相手がどこのだれと具体的な名前が上がったわけではない、と、一夫は言った。
「すると、結婚願望を、話したということですか」
「いずれ詳《くわ》しいことを報告できる、と言っておりましたので、単なる願望とは違うと思うのですが」
「好きな男性が現われれば、隠していても、美津枝さんのどこかに変化が生じたと思います。お兄さんの印象としては、どうでしたか」
「何せ、大阪へ出てからは、すっかり都会人になってしまいましてね、正直言って、美津枝の考え方が、田舎《いなか》暮らしの私らには、理解のできないところもありました」
「今回の横浜転居も、結婚が前提であることを、お兄さんたちに漏らしていたと聞きましたが」
「子供の頃から、都会生活への憧れが強かった妹でしてね。前向きというのでしょうか。しっかりした性格なので、私ら、妹を信じておりました」
一夫は、美津枝が大阪から横浜へ移ったことに関しても、正確な理由を聞いていなかった。
「美津枝も二十八歳でした。都会で独立して長いし、もう子供ではありません」
と、一夫は繰り返した。
最後に、浦上は、美津枝が三ヵ月前まで働いていた、大阪の会社の名を尋ねた。
輸入合板などを扱う、『不二通商』大阪支社だった。
聞いたような社名だが、確かな記憶がないのは、東証一部上場の商社ではないせいだろう。
結局、実家からは、�男�の名前どころか、匂いさえ嗅ぐことができなかったわけである。
それが、消極的な意味では、実家を訪ねた�収穫�ということになろうか。すなわち、美津枝のふるさとからは直接的な資料が得られなかったので、取材先が、都会に集中したということである。
横浜と東京、そして何よりの焦点が、大阪だ。
間もなく僧侶が姿を見せたので、浦上は立ち上がった。階段まで一夫に見送られて、『高橋食堂』を出た。
生家での実りが少なかったせいもあって、浦上は一刻も早く東京へ帰りたくなっていた。ここからなら、最も早い空路は高知だろう。高知空港からの飛行機に間に合うかどうか、浦上がバス停まできて、ショルダーバッグから時刻表を取り出すと、
「失礼ですが」
若い女性が話しかけてきた。
微《かす》かに、記憶があった。いま『高橋食堂』の二階で、浦上のすぐ近くにいた弔問客の一人だ。
若い女性は、美津枝の高校時代のクラスメートであると、自己紹介をした。すると二十八歳前後か。
菊池澄子《きくちすみこ》という名前だった。
美津枝のような際立った美貌とは違うが、さわやかな印象を与える、感じのいい女性だった。
ワンピースは黒地に白色のストライプで、襟《えり》を少し立てた着こなしが、都会ふうだった。そう、澄子も、大阪に就職しているのだと言った。
「取材の参考になるかどうか分かりませんが、美津枝に、深く愛し合う男の人がいたことは間違いありません」
と、澄子は浦上の顔を見た。瞳の大きな女性だった。
澄子は、浦上と一夫のやりとりを、ずっと小耳に挟《はさ》んでいたのだろう。それで、わざわざ追いかけてきてくれたのかと思ったが、それだけではなかった。
事件解決のため、取材に協力してくれる意味もあったけれど、澄子も、高知空港から大阪へ帰るところだという。
「あたし、事情があって、どうしても今夜大阪へ戻らなければならないので、お通夜もお葬式も失礼して、お焼香にだけ参りましたの」
と、澄子は言った。
行き先が同じ高知空港と分かって、地理不案内な浦上は、美津枝の取材を兼ねて、澄子に同行することにした。
「空港へは、土佐山田駅からJRで高知駅へ出て行くわけですね」
と、浦上が尋ねると、
「そんな遠回りしなくて、土佐山田駅からタクシーに乗ればいいのですけど、ここからバスが利用できますよ」
と、澄子はこたえた。
龍河洞からは、高知市内はりまや橋行きの路線バスが走っていた。バスは、高知空港を経由して行くルートもあるが、それは十六時十分発で終わっていた。
澄子と浦上は、龍河洞からバスで十五分ほどの野市まで出、野市乗り換えで高知空港へ向かうことにした。
龍河洞発十七時十分の最終バスだった。ついていなかった取材の最後に、ようやく光が差してきたという格好である。
しかし最終バスも、野市から乗り換えたバスも込んでおり、車内では、思うように話ができなかった。