浦上伸介は、地方取材のときと同じように早起きして、横浜へ行った。
谷田実憲も、早目に県警記者クラブへ出ていてくれた。
浦上が、谷田の後について捜査一課に寄ったのは、午前十時を回る頃だった。
朝の一課は、関係者の出入りが慌ただしい。淡路警部は、自分の机で、書類に目を通していた。
課長補佐席は大部屋の右手奥である。
浦上が机の前に直立して、
「このたびは、いろいろありがとうございました」
最敬礼すると、
「松山南署の署長から緊急電話が入ったときは、私もびっくりしたよ。まあ、掛けてください」
浅黒い顔の警部は、特徴のあるギョロリとした目で浦上と谷田を見、傍らのいすを二人に勧めた。そして、目を通していた書類を机の引出しに片付け、回転いすを回して、浦上と谷田に向かい合った。
警部は、これまでの経緯は、すべて承知していた。捜査過程は松山南署の捜査本部から連絡が届いていたし、浦上の立場と浦上の主張は、谷田から逐一報告が入っていたためである。
「浦上さん、提示されたデータをそのまま承認するなら、確かにあんたは、殺人犯としての立派な有資格者だ」
警部は、角張ったいかつい顔に笑みを浮かべ、さらに冗談めかして、こうつづけた。
「これだけ条件がそろっているのだから、後は動機だね。浦上さんと、絞殺された高橋美津枝さんの隠れた関係が明るみに出、動機の説明が付いてくれば、これはもう、動かしようがない。私だって、あんたを逮捕する」
「やめてくださいよ、警部」
浦上が苦り切った面持ちで抗議すると、
「仕掛けられた罠は、それほど完璧だってことなのでね」
警部は真顔に戻って、禁煙パイプをもてあそんだ。禁煙に踏み切った警部は、目下、悪戦苦闘中なのである。
警部は禁煙パイプをくわえ、しばらく考えるようにしてから、
「私としては、どうしても、物証を重視する」
重い口調になった。
「谷田さんと話し合うまでもなく、分県地図も王将駒も、楽に移動できる物証であることは分かっている。しかし、指紋をどうしますかな」
指紋の説明がつかない限り、疑惑は解消しない、と、宇和島西署の刑事《でか》部屋で繰り返したのは矢島部長刑事であったが、いま、淡路警部もまた、
「浦上さんが触れたこともない王将駒や分県地図に、浦上さんの指紋が付着しているのはなぜか。このトリックを解明することが、浦上さんがシロであることの証明となり、真犯人《ほんぼし》に肉薄する第一歩となるわけです」
と、強調するのである。
警部は、もちろん、打つべき手は打っていた。
松山からファックスで送られてきた浦上の指紋を、県警科学捜査研究所へ届けたのは昨日の午後である。
「専門家も、どういう仕掛けがあるのか思い浮かばないと言ってるのですな」
と、警部はつづけた。
もちろん、ゼラチン紙に転写するなどの方法はあるけれど、地図(紙)、駒(木)への再転写は、このように鮮明にはいかないという。
「松山南署も、当然、その点の追及を怠ってはいません。警察庁指紋センターの協力を得たそうです。しかし、結論は同じでした。当人が直接触れる以外、指紋がこのように付着することは、有り得ないというのですな」
「トリックが考えつかないのなら、浦上が、問題の地図と駒を直接手にしているってことでしょう」
それまで黙っていた谷田が口を挟んだが、谷田は、何かを言いかけてやめた。
「浦上さん、あんたは前に、殺人犯の、アリバイ証人に仕立てられそうになったことがありましたね」
と、警部がことばを重ねてきたためである。警部が思い出したのは、何年か前の事件(講談社文庫『寝台特急18時間56分の死角』)で、ブルートレイン�さくら�を舞台にしたものだった。
それは酒好きの浦上が、酔い過ぎた上での失敗が、遠因となっている。
今回は、寝台特急�さくら�の場合とは事情が違うけれど、
「最近、前後不覚に泥酔したことはありませんかな」
と、警部は尋ねてきた。
「私には、それしか思い付かないんだな」
「前後不覚に酔いどれた浦上に工作者が接近し、用意してきた地図と駒に指紋を付着させたというわけですか」
谷田は両腕を組んだ。
なるほど、それも一つの考え方ではあるだろう。
しかし、学生時代とか、夕刊紙の社会部に在籍していた頃を別にして、浦上がアルコールを飲んで自分を見失ったのは、犯人によって意図的に誘眠剤を混入された、寝台特急�さくら�の一件だけだ。
「絶対に、そんなことはありません」
浦上は否定した。
「いくら飲んだからといって、他人の自由になったり、言いなりにされるほど酔ったことはありません」
「うん、そうだな。おまえは飲んでも、飲まれるタイプじゃない」
谷田もうなずいた。
結局、淡路警部の�発見�は、この場は平行線で終わった。警部にしてみれば、他にトリックが思い浮かばなかったわけであるが、浦上にすれば、それこそ絶対に、「前後不覚の泥酔」は経験していないのである。
「それにしても浦上さん、何とも奇妙な事件に巻き込まれたものだ」
警部は、禁煙パイプを机の上に置き、その後の捜査に進展がないことを、小声で打ち明けてくれた。
「昨日、松山から出張してきている捜査員に協力して、被害者《がいしや》が勤めていた伊東建設の事務机とかロッカー、それに井田マンションの家宅捜索《がさいれ》をしたのだがね、めぼしいものは何も出てこなかった」
と、警部は言った。
そのとき、他社の警察《さつ》回り記者が、捜査一課へ入ってきた。
谷田と浦上はさり気なく腰を上げ、課長補佐の机から離れた。