何か言い足りないことがある感じだった。しかし、実際には、しばし無言で、日本大通りの、いちょう並木の下を歩いた。
昨日の四国と同じように、空はよく晴れているが、いちょう並木越しに見る雲の動きは、完全に秋の気配だった。
谷田と浦上は、横浜スタジアム裏手の喫茶店に寄った。
広い店内だが、午前中のせいか、客の姿は少ない。
奥のテーブルについてコーヒーを注文すると、浦上は電話をかけに行った。カード電話のプッシュボタンを押した先は、松山南署の捜査本部である。
浦上は、連絡電話を入れることを、半ば義務付けられているわけだ。が、�義務�よりも、取材が主目的であるのは、言うまでもない。
通話は簡単に終わった。
電話を済ませて、谷田が待つテーブルに戻ってくると、
「何しろぼくは重要参考人ですからね、所在を明確にしておくことで、自由が保証されているってわけです」
浦上は、冗談とも本音ともつかない話し方で言った。
「四国に動きがあったか」
「進展はない感じですね。ただ、ぼくを留置しようとした矢島って部長刑事《でかちよう》さんが、大阪へ向かったとか」
「やっぱり、事件《やま》の中心は大阪だな。きみはいつ出かけるつもりだ?」
と、言いかけて、
「その前に、ばかげたトリックの解明が先だな」
谷田は口調を改めた。
解明に、自信がありそうな、目の色だった。淡路警部の前で、谷田らしくもなく口籠《くちごも》っていたのは、自信のある解明を、スクープに直結させようとしていたためなのか。
恐らくそうだろう。それで、警部の前では公表をはばかったのに違いない、と、浦上は思った。
浦上と谷田の交際は、長く深いのである。谷田が何を意図しているのか、口に出されなくとも、浦上には察しがつくというものだ。
「先輩、聞かせてもらいましょうか」
「ポイントのところは、警部が指摘した�前後不覚�に共通している」
谷田はそう前置きして、
「いいか。しっかり思い出してくれよ」
と、浦上の顔を見た。
ウェイトレスが、コーヒーを運んできた。
谷田は、コーヒーを一口飲んで話をつづけた。
「警部が言ったように、きみが直接触れなければ、地図にも駒にも、きみの指紋は残らない」
「ぼくが、どこかで、レンタカーに置かれた�物証�を手にしているというのですか」
浦上は首をひねった。
宇和島で矢島部長刑事から追及されて以来、何度も考えてきたことである。いくら首をひねっても、何も浮かんでこない。
谷田は、しかし、
「こいつは、何とも子供|騙《だま》しみたいな、ばかげたトリックだ」
と、浦上の顔を見詰めて、しっかり思い出せ、と繰り返すのである。谷田は何に気付いたのか。
浦上はコーヒーを飲み、キャスターに火をつけて、遠くへ視線を投げた。
分からない。
「先輩、結局は、これまで説明してきたとおりです」
たばこを半分ほど吸って、困ったようにもみ消すと、
「ヒントを出そう」
谷田の声が、重々しいものに変わった。
「まず分県地図だ。きみが、問題の地図を手にできる場所はどこだ?」
「場所?」
「きみは今回の取材が決定したとき、どこかで、愛媛、高知、徳島、香川など、取材先の地図を見ているはずだ」
「それはそうですが」
浦上の脳裏で、何かが目まぐるしく交錯する。
「今回、きみがショルダーバッグに入れていったのは、四国全県を一冊にまとめたガイドブックだけだったな」
他に下調べはしていかなかったのか、と、谷田は言い、
「問題の分県地図がきみの書架になかったのなら、手にした場所は、どこかの図書館か、週刊広場の資料室ということになるだろう」
と、具体的に�場所�を挙げた。
「先輩!」
浦上の声が、ふいに高くなった。
浦上は自分の顔色が変わるのを、知った。脳裏で、目まぐるしく交錯していたものが、ぴたっととまった。
浦上の声は、一転して低くなった。
「先輩、思いがけないことなので、つい失念していましたが、ぼくは確かに、分県地図を手に取ったことがあります」
「そりゃそうだ」
谷田は当然という顔をしている。
「オレが、ばかげたトリックと感じたのは、そういう意味だ。言ってみれば、思考の死角だな」
「夏の終わりの城下町の、取材分担が最終的に決定したとき、細波編集長や青木副編集長たちと神保町《じんぼうちよう》の赤ちょうちんで一杯やりました」
浦上は十日ほど前を、慎重に思い起こして、言った。
正確には、八月二十三日、水曜日の夕方だ。
神保町の焼き鳥屋で小一時間を過ごすと、編集長たちとは別れ、東北担当と九州担当の取材記者《データマン》と三人で、御茶《おちや》ノ水《みず》駅近くの居酒屋へ寄った。
「そこでは二時間近く飲んだでしょうか」
「かなり、メートルが回ったってことか」
「前後不覚ではありませんが、ま、結構酔っていましたね」
浦上は、二人の取材記者と別れると、ふらっと、閉店間際の書店に足を向けたのである。その記憶が浦上の内面でまったく欠落していたのは、泥酔状態でなかったとはいえ、深酔いのせいだろう。
「ポイントのところは、警部が指摘した�前後不覚�に共通している」
と、谷田が口にしたようにだ。
「きみが地図売り場の棚の前に立ったのは、その夜、閉店間際の、御茶ノ水の書店でだな」
「最初から、地図を見る目的で書店に入ったわけではありません」
浦上は小声でつづけた。
地図を買うのが眼目でなかったこともまた、�失念�の遠因と言えよう。浦上は定期購読している旅の月刊誌を買うために、書店に立ち寄ったのである。
分県地図に手を伸ばしたのは、ほんのついでだった。
求める意思はなかったが、旅の雑誌を買い、ついでに近くの棚から愛媛の分県地図を引き抜き、地図に同封されたパンフレットの、県の地形とか気候、産業とか歴史を紹介するページをぱらぱらとめくって、拾い読みしたのだった。
「それだな」
谷田の声に力が込もった。推理が適中した谷田は、機嫌のいい表情で、
「こういう日常的なトリックが、やっぱり盲点になるんだね」
と、ピース・ライトをくわえた。
「ぼくが棚に戻した愛媛の分県地図を、犯人《ほし》が、自分の指紋を付着させないよう注意して取り出し、買い求めたってわけですか」
「おい、一緒に飲んだという二人の取材記者《データマン》は大丈夫なのか。その場合、きみのもっとも近くにいたのは、その二人だぞ」
「あの二人ではありません」
浦上は即座に否定した。
居酒屋を出ると、二人は浦上の目の前で流しのタクシーをとめて、青山へと走り去ったのである。浦上がそれを言うと、
「それじゃ、尾行者だ」
谷田はうなずいた。
「いまさら悔んでも詮無《せんな》いが、浦上サンよう、おまえさん何も気付かなかったのかい。その夜、明らかに、だれかがきみを尾行《つけ》ていたはずだ」
「ぼくの指紋を採るための、尾行者ですか」
「王将駒も、同じ伝だな」
谷田は、うまそうにたばこをくゆらした。
「きみを尾行すれば、駒の一枚ぐらい手に入れるのは造作もない」
「将棋クラブですか」
「小さいクラブでは難しいだろうが、大きいセンターなら、一枚失敬するのは容易《たやす》いし、犯人が、席主や従業員に、顔を記憶される危険も少ない」
「新宿か」
浦上は一点を見詰めた。
浦上がホームグラウンドとしている将棋クラブは「渋谷」と「新宿」だ。「渋谷」は畳敷きでアットホームな、こぢんまりとしたものだが、「新宿」のほうは、将棋盤が五十面を越える規模だった。
「土曜日だから、もう開席していますね」
浦上は、腕時計を見、谷田から言われるまでもなく立ち上がっていた。
電話は、すぐに新宿の将棋クラブに通じた。なじみの、席主の声が電話を伝わってくる。
「へえ、浦上さんが仕事で電話かけてきたなんて、初めてですね」
席主はそう言ってから、こちらの推理を肯定した。
「ほんのたまにですが、駒の紛失は後を絶ちません」
「そこで、その王将駒ですが」
「一週間ぐらい前でしたかね、確かに王将が一枚失くなっています。プラスチック駒ならともかく、黄楊《つげ》の彫り駒でしょう。困ったものです」
「妙なことを伺いますが、彫り駒が盗まれたのは、ぼくがおじゃました日ですか」
「王将駒の紛失が、週刊広場の取材とどういう関係があるのですか」
席主はそう反問して、いったん受話器を置いた。
手合係の従業員に対する席主の問いかけが、机の上に置かれた受話器越しに聞こえてくる。
そして、間もなく、席主の声が戻ってきた。
席主は言った。
「王将駒が失くなったのは、先週の金曜日です。八月二十五日ですね。手合カードを調べさせたところ、この日、浦上さんはお見えになって、三局指していますよ」