『週刊広場』は、大手総合出版社の発行だった。本社ビルは、皇居・平川門に近い一ツ橋だが、週刊誌のほうは、神田錦町の分室に入っている。
七階建て、細長い雑居ビルの三階が編集室になっている。
JRを利用する場合は、御茶ノ水駅、神田駅、どちらで下車しても、徒歩にして十分ほどだ。
横浜から引き返した浦上は、神田駅で降りた。
浦上は電車の中でも渋い顔をしていたが、電車を降りて街路樹の下を歩きながらも、じっと考えるまなざしだった。週休二日のオフィスが多いせいで、土曜日の昼過ぎは舗道も空いている。
(まさか、あの副編集長がねえ)
浦上は、谷田にぶっつけた疑問を繰り返しながらNTTの前を歩き、美土代町の交差点を渡った。
青木は三十七歳。『週刊広場』へ配属される前は、本社で国語辞典の編集に携わっていた男だ。そうした経歴ゆえでもあるまいが、地味で堅実な人柄だった。
どう考えても、青木副編集長が殺人にかかわってくるとは思えない。
青木と浦上との交際も、公私ともに、うまくいっている。トラブルが生じたことなどは、一度もない。
青木は的確に、仕事を処理していくタイプだ。浦上はそうした副編集長を、ある面で尊敬していたし、青木のほうでも、浦上に目をかけてくれている。
そのようなこれまでの人間関係を考えると、(百歩譲って、青木を殺人《ころし》の共犯と仮定しても)卑劣な罠を仕掛けてくるとは考えられないのである。
「副編から、ひそかに探ってみろ」
谷田は怒鳴りつけんばかりにして、そう言ったが、青木を掘り下げたところで、何かが出てくるとは思えない。
だが、しかし、谷田のことばを引用すれば、青木をかばうのは浦上の主観ということになろう。浦上サイドの突破口は、目下のところ、青木しかいないのだ。
(いや、そうじゃないぞ)
考え詰めてきた浦上は、街路樹の下で足をとめた。
(だれかが、副編集長の手帳を盗み見たらどうなるか)
浦上の脳裏を過《よぎ》ったのが、それだった。飽くまでも青木を信じるとすれば、考えられるのは、それしかない。
青木の手帳を盗み見て、浦上の旅程、すなわちフェリーの松山港着の時間をチェックしていったのはだれか。
青木の手帳を盗み見るのは、青木の周辺にいる人間でなければ難しいだろう。
(副編集長の身辺にいる人間となると)
殺人《ころし》の共犯はやはり『週刊広場』の関係者か、とつぶやきかけて、浦上は顔を上げた。手帳を盗み見るという仮説が、あまり意味のないことに気付いたのだ。
発想としては使えるが、大体が、手帳をそこらへ置いておくような人間はいない。増して青木は、きちょうめんな性格ではないか。
浦上は、青木が手帳を取り出すのが、常にブレザーの内ポケットであることを思い出した。あの手帳の中味を、盗み見るのは、無理だ。
ということで、浦上の思い付きは、一瞬の中に消えていた。
問題は原点に戻った。
結局、青木の手帳をチェックできるのは、青木しかいないのである。
青木はクロか。しかし、どう探りを入れればいいのだろう?
浦上はふたたび考えながら歩き、『週刊広場』編集部が入っている雑居ビルの前にきていた。
(ん?)
浦上の表情が変わったのは、エレベーターから降りてくる事務服姿の若い女性を見たときだった。
青木副編集長の無実にこだわる浦上に、その顔見知りの若い女性が光を運んできた。
「おや、だれかのクーポン券を届けにきたのですか」
と、浦上が話しかけると、
「いいえ。今日は集金に伺いましたの」
事務服姿の女性は、そうこたえて擦れ違って行った。
女性は、『週刊広場』に長年出入りしている旅行代理店の社員だった。
その後ろ姿を見送って、
「スケジュールの詳細を、入手する先があるじゃないか」
浦上は、だれかに話しかけるように声を出していた。
『週刊広場』の出張の手配を、一手に引き受けているのが、神保町の『石田旅行社』だった。浦上も今回、東京駅発の新幹線の指定券とか、四国島内フリーパス券とか、『ホテル松山』『ニュー宇和島ホテル』、そして高知、高松のホテルの予約とか、帰路の寝台特急�瀬戸�の予約など、すべてを『石田旅行社』に一任している。
『石田旅行社』は、浦上の出発から帰着までを、正確に把握しているのである。
副編集長がシロなら、情報ルート入手は旅行代理店しかない。
浦上はエレベーターに乗ろうとして、やめた。
事務服姿の若い女性を追いかけるようにして、神保町へ行った。
『石田旅行社』は交差点の近くだった。
浦上が入って行くと、
「あれ? 浦上さん、今日は高松泊まりじゃなかったですか。帰りは、月曜の朝東京駅へ着く�瀬戸�のはずですよ」
主任格の男性社員が、カウンターの中から話しかけてきた。先方が浦上のスケジュールを詳しく承知しているのも道理だった。今回の四国取材に関しては、ホテルなど、すべて、この社員が手配してくれたのである。
「急な企画変更でね、選手交替で呼び戻されました」
浦上はカウンターに寄りかかり、他の社員とか客に悟られないような小声で、要点に触れた。
「ああ、そういえば、そんなことがありました」
先方はあっさりと、浦上の疑問解消のこたえを言った。
確かに、浦上の出張スケジュールに関する問い合わせ電話が、入っていたというのである。
「間違いありませんね」
浦上は取材帳を取り出していた。
「電話は、いつかかってきたのですか。かけてきたのは男でしたか、女でしたか」
と、浦上が性急に詰めよったので、
「何か不都合がありましたか」
旅行代理店の社員は、戸惑ったような声を出した。
「問い合わせは二回ありました。二度とも週刊広場の編集部からでしたよ。ええ、男性の声でした」
「編集部の、だれがかけてきたのですか」
「お名前は伺いませんでした。そういえば、聞き覚えのない声でしたね。電話は私が受けたのですが、かけてきたのは同じ男性だったと思います」
問い合わせは一方的なもので、
「こちらは週刊広場ですが、浦上のクーポン券はできていますか」
と、二回とも同一な内容だったという。
一度目は一ヵ月ほど前であり、このとき、浦上名義の予約は『石田旅行社』に入っていなかった。
次に『週刊広場』と名乗る男から電話がかかったのは、半月前だ。
今回の四国取材の、第一回目の企画会議が開かれた直後だった。『石田旅行社』では、『週刊広場』の注文を受けて、東北、九州、そして四国のホテルなどの予約を済ませたところだった。
で、その旨を告げると、
「念のために」
と、電話をかけてきた男は、松山から高松への旅程を確かめたという。
得意先の会社から、そうした再確認というか問い合わせが入るのは珍しいことではないので、社員は特別な不審も抱かなかった。
「あの電話、編集部の人ではなかったのですか」
「いえ、そういうわけではないのですが」
浦上はことばを濁した。知りたいのは、�男�の身元だ。
しかし、これは、�男�を『週刊広場』の編集者と信じて話していたので、半月も経ってからでは、ヒントとなる何かを思い出しようもなかった。旅行代理店の社員が繰り返すのは、
「そうですね、あの人は広島の宇品《うじな》港から松山の三津浜《みつはま》港へのフェリーの時間を、何度も気にしていましたよ」
というものだった。
浦上は『石田旅行社』を出た。
物証入手の方法に次いで、どうやらもう一つの壁も見えてきたようである。
浦上はすずらん通りを『週刊広場』へ引き返しながら、遠くに目を向けた。壁の高さも厚さも、いまはまだ判然としないが、壁が見えてきたことだけは間違いない。
松山の殺人へ向けて、明らかに、だれかの意志が潜行していたのだ。留意すべきは、問い合わせが、二回入っていたことだろう。
電話をかけてきたXは、『週刊広場』が『石田旅行社』を利用していることは承知していても、浦上がいつどこを取材するか、その具体的なことまでは知らなかったことになる。
知っていれば、一ヵ月前に入ったという一度目の電話は必要なかったはずだ。あのとき、浦上には出張の予定がなかったからである。
Xは、言ってみれば当て推量で探りを入れていたのに違いない。
そして、八月三十日の十八時に松山港へ着くフェリーに遭遇した。
(それが、ぼくを罠にかけた殺人計画の出発点だな)
と、浦上は自分に言い聞かせた。
Xによる『石田旅行社』への二度目の電話は、半月前である。谷田が指摘したところの尾行は、当然、浦上の四国取材をキャッチしてから開始されたのであろう。
それで、筋道も一貫してくる。
二度目の電話がXから『石田旅行社』にかかってきたのが、八月十七日前後。
細波編集長、青木副編集長、そして二人の取材記者《データマン》と飲んだのが八月二十三日。新宿の将棋クラブへ寄ったのが八月二十五日。
この尾行と、当て推量でかけてきた問い合わせ電話から抽出されるのは、Xが『週刊広場』サイドの男ではないということだ。
社員でなかったとしても、編集部に出入りしている人間であれば、物証の入手にしても、旅程の確認にしても、もっと容易に、別な方法が採られていただろう。
しかし、Xは、『週刊広場』が『石田旅行社』を利用していることを、承知している。Xは、旅行代理店サイドの男だろうか。