浦上伸介が、地下鉄を西中島南方《にしなかじまみなみかた》駅で降りたのは、正午少し前だった。
西中島南方は、新大阪から一つ目の駅である。この辺りでは、地下鉄が町を見下ろして、高架線上を走っている。
新しいビルが多い町だった。関西地方も、秋の訪れを感じさせる、心地よい快晴である。
浦上は階段を下りて、小さい改札口を出ると、勝手知ったように、阪急|南方《みなみかた》駅のほうへ折れた。
大阪は関西以西の取材の拠点なので、年間、少なくとも十回は梅田のホテルに泊まっている浦上である。浦上は、東京や横浜同様、大阪の地理に詳しい。
菊池澄子との約束時間の、ぴたり五分前に、浦上は指定された『ホテル・レキシントン』の一階ロビーに入っていた。
ロビーはそれほど広くなかった。回転ドアを背にして右手がフロント、左奥にエレベーターが二基並んでおり、その手前にソファがあった。
ソファには数人の男女がいたけれど、浦上の姿を見て、クリーム色のスーツの女性が、さっと立ち上がって、軽く頭を下げた。
澄子だった。澄子も、約束の時間よりは早く来る、きちょうめんな性格らしい。
二日目の再会だが、高知以来だけになつかしい気がした。
「昨夜、美津枝のお兄さんから電話がありました。美津枝のお葬式は、昨日無事に終わったそうです」
澄子は最初にそれを言った。初対面だった土佐山田では詳しい説明をしなかったが、澄子は会社で組合関係の役員をしていた。その役員会議が、一昨夜と昨日の午前中と、二日つづけてあったため、旧友の葬儀を欠礼したのだった。
しかし、澄子は欠礼の代わりに、事件の真相追及に乗り出した。これこそ、友情以外の何ものでもないだろう。
組合活動をしていると聞かされて、
(なるほど)
と、浦上は、澄子の積極的な行動力を納得した。
そして、約束の十二時を二、三分過ぎたとき、エメラルドグリーンの七分そでのジャケットに、黒いタイトスカートの、小太りな女性が回転ドアを入ってきた。
殺された美津枝の三ヵ月前までの同僚、塚本るり子だ。るり子は三十代半ばだった。一目、ハイミスという感じである。
るり子は、浦上はもちろん澄子とも初めて顔を合わせたのであるが、ソファの前で立ち話をする二人を見て、まっすぐに歩いてきた。
「お待たせしました」
と、一礼するるり子は色白で、小太りの割りにはどこかに険のある表情だった。
「三階にレストランラウンジがありますの。お肉がおいしいんですのよ」
と、るり子は言った。検討は昼食をしながら、と、勝手に決めてきたようである。
このホテルを待ち合わせ場所に指定したのも、無論るり子だ。ホテルが、『不二通商』大阪支社に近いこともあったが、るり子は、一方的に物事を進めて行くタイプのようだった。
るり子の先導で、三人はエレベーターで三階に上がった。
ランチタイムとあって、広いレストランは八分通りの込み方だった。
三人はボーイに案内されて、壁際のテーブルについた。
るり子が推奨するサーロインステーキを、るり子と同じように浦上と澄子も注文して、改めて、初対面のあいさつをした。
「昨日、菊池さんからお電話いただいた後で、刑事さんがあたしの家に見えましたわ」
と、るり子は切り出した。
東淀川区のるり子の家にやってきたのは、松山南署の矢島部長刑事と、矢島とコンビを組む若手刑事だった。二人の刑事は、澄子と同じように『不二通商』大阪支社を訪ね、土曜休日だったので、関係社員の自宅聞き込みに回ったらしい。
「刑事さんには、どういうことを話されたのですか」
浦上がその点を気にすると、
「何も言いませんでした」
るり子はきっぱりとこたえた。
「しかし塚本さん、あなたは、高橋美津枝さんを殺した犯人に、心当たりがあるのではないですか」
「犯人は分かっています。でも、証拠がありません。証拠もないのに、うかつなことを警察の人に言うわけにはいきませんわ」
そうした話し方にも、るり子の一徹な気性が窺《うかが》えるようだった。それはハイミスに特有なものかもしれないが、
(こいつは、話を割り引いて聞く必要がありそうだな)
と、浦上はこれまでの取材経験で感じ取っていた。
こうした相手は、うまくペースに乗せてしまえば、いくらでも話を引き出すことができる。だが、主観が強いので、コメントを、そのまま記事にすることはできない。
浦上は、あえて取材帳を取り出さなかった。
「あなたの家を訪れた刑事さんは、どういう質問をしてきたのですか」
「うん、高橋さんの交際相手ね。特に、親しくしていた男性はだれか、その点をしつこく、繰り返し尋ねていたわ」
しかし、るり子は、何も知らないで押し通したという。
黙っていた理由は、その交際相手こそが、るり子が犯人視する男だったからである。証拠がないという、その男はだれか。
「故人には失礼かもしれませんが、高橋さんは何人か、複数の男性と交際していたのではありませんか」
浦上はちらっと澄子の顔を見、一昨日の澄子の発言を踏まえての質問をした。
するとるり子は、にこりともせずにこたえた。
「それは、高橋さんはおきれいでしたから、言い寄る男性社員も多かったですよ。でも、結婚を意識してつきあっていたのは、課長一人だけでした」
「課長?」
話が具体的になってきた。
いつもの浦上ならば、ここで取材帳を手にし、ボールペンを握り締めるところだが、今回は、せっかちな追及はやめた。るり子がその気になっているのだから、飽くまでも彼女のペースでいこう、と、自分に言い聞かせた。
「あたし、週刊広場は昔から読んでいます。愛読者と言っていいと思います」
るり子は、少し話題を変えた。
「刑事さんにうっかりしたこと話すと、いつまでも厳しく事情を訊かれたりするのではありません? それなら、信用できる記者さんにご相談するほうがいいと思いましたの」
と、るり子は言った。
それが、本題に入るための前提であったが、確かに、刑事に対して距離を置く人間が少なくないのは事実だ。捜査に協力する意志はあっても、もう一つ確証がはっきりしなければ、なおのこと、そういう態度を取る結果になる。
るり子に限らず、それは澄子にも指摘できることだろう。浦上は、龍河洞《りゆうがどう》のバス停で声をかけてきたときの、澄子の、ややためらいの感じられた表情を思い返した。
「分かりました。不明な部分は、週刊広場の取材力で補いましょう」
浦上はるり子を誘導するように言った。
「がっちり取材して、その課長さんの容疑が濃くなれば、捜査本部へ連絡しますし、無実と分かれば、これから伺う話は、一切聞かなかったことにします」
「会社の中でも、あたししか知らないことだと思います」
るり子は、一語ずつ区切るような言い方をした。いかにも重要なことを切り出すという口調であり、自分だけが承知している秘密をだれかに打ち明けないではいられない姿勢がありありと感じられた。
それを見て澄子も、
「美津枝は、だれとでも積極的に交際するタイプでしたけど」
と、るり子を促した。澄子が、高知空港で浦上に打ち明けたように、要点をぼかして話す美津枝の性癖を言うと、
「そう、だから、すべてがうわさの域を出ないのよ。でも、あたしは別。高橋さんとは何年も机を並べてきた同僚でしたから」
と、るり子はこたえた。
たとえば、プライベートにかかってきた課長からの電話を、美津枝が仕事の電話と言い繕《つくろ》っても、
「あたしにはぴんときました。何しろ、高橋さんとは一緒にいた時間が長かったですからね」
と、るり子は、澄子と浦上の顔を見た。
長年の同僚ということもあろうが、るり子は、隣人の秘密に、人一倍の関心を寄せる性格のようだ。美貌の後輩が、妻子持ちの上司と怪しいとなれば、関心もエスカレートするに決まっている。
そして、それが事実ならば、不倫の関係という澄子の見込みどおりになる。
「美津枝さんは、土佐山田のご家族に対して、二年前と今年と、二回結婚を匂わせているのですが、あなたが言う課長さんは、今回の相手、ということになりますか」
「いいえ、高橋さんのお相手は、ずっと一人だったはずですわ」
「すると、二年前から、その課長さんとの関係がつづいていたというのですか」
「殺人は見たわけではありませんが、課長と高橋さんの、男と女の関係なら、あたし、確信を持って証言することができます」
「その課長さんが大阪から転出し、高橋さんが後を追って横浜へ移った、とそういうことになりますか」
「違います。課長は大阪支社ではありません。昔から、東京本社の営業です」
「東京の人間でしたか」
「営業部の課長ですから、地方出張が多いのですよ。特に大阪支社へは頻繁《ひんぱん》に来てましたわ」
「そういう経緯で始まった、職場恋愛ですか」
「おことばですが、恋愛と言えますか。高校時代からの親しいお友達の前で何ですが、課長には常務の姪《めい》ごさんという、ちゃんとした奥さんがいるのですよ。あれはまともな恋愛ではなく、不倫なオフィスラブではありませんか」
険しい表情を反映するような、辛辣《しんらつ》な言い方だった。異性に縁のなさそうなこのハイミスには当然、嫉妬心もあっただろう。
「あなた、守口《もりぐち》市のマンションへ遊びに行ったことあります?」
と、るり子は澄子に問いかけた。
横浜に転居するまでの美津枝の住居が、守口市寺内町の『パレス17』というマンションであったことは、浦上も聞いている。
守口市は大阪市に隣接する京都寄りで、新大阪駅からもそれほど遠くない。
住所は承知しているが、マンションへ遊びに行ったことはない、と、澄子がこたえると、
「そうでしょう、高橋さんがあのマンションを借りたのは二年前だけど、彼女、だれも寄せつけないのよ。どうしてだか、分かって?」
るり子は口元に皮肉な笑みを浮かべて、言った。
「だれかに来てもらっては困るわけよ。彼女、守口のマンションで課長と同棲していたのだもの」
「そこまで、あなたは知っているのですか」
「同棲とは少し違うかな。課長は東京の品川区に家があるのだし、大阪へ出張したときだけ利用していたのだから、半同棲と言ったほうが正確かしら」
たまたまある日、『パレス17』の前を通りかかったるり子は、課長と美津枝が連れ立って入って行く場を目撃したというのだが、偶然ではないだろう。るり子のことだ、どうやら美津枝を尾行して、�半同棲�を確認したという感じである。
殺人は推測だが、
「課長と高橋さんの、男と女の関係なら、あたし、確信を持って証言することができます」
と、るり子が語ったのは、その目撃が基礎になっている。
大阪へ出張中の矢島部長刑事たちは、当然『パレス17』を聞き込んでいるはずなので、美津枝の部屋に男性が出入りしていたのが事実なら、捜査も一歩前進しているだろう。しかし、相手の男が、『不二通商』東京本社営業部の課長であることまで割れたかどうか。
「他に親しくしていた男性がいないとしたら、美津枝さんが結婚したかった相手は、その課長さんということになりますか」
「彼女、欺《だま》されていたのですよ」
当時、課長は妻子と別居中だったという。子供は、現在四つになる男の子が一人。
別居はしていたが、課長に妻と別れる気持ちはなかった、と、るり子は断言する。
「だって、いまも言ったように、奥さんは常務の姪ごさんでしょ。課長が出世コースに乗っているのも、奥さんがいればこそで、これは、社員ならだれもが知っていることです」
「そんな大事な奥さんと、どうして別居したりしたのですか」
「課長の弟さんが、女の人を殺したためです」
「人殺し?」
話が、穏やかでなくなってきた。
「その課長さんの弟が、殺人者だというのですか」
「それも、会社の中では、皆が知っていることですわ」
実弟が殺人犯として逮捕されたので、世間体を取り繕う妻は、子供を連れて同じ東京都内の実家へ帰ってしまったのだという。
「そうした状況で妻子と別居中に、部下のOLに手を出すとはね」
「そんな男ですもの、じゃまになったら、高橋さんを殺すことぐらい、やりかねないと思います」
「二年間も関係がつづいてきたのに、美津枝さんがじゃまになるような、何が起こったのですか」
「別居中だった奥さんとの、縒《よ》りが戻ったのよ。一時の遊び相手など、じゃまになるのが当たり前でしょう」
課長の復縁が半年前であり、美津枝が『不二通商』を辞めて横浜へ転居したのが、三ヵ月前。
「やはり、美津枝さんは、恋する人を追って大阪を出て行ったことになりますか」
「それ以外に考えられます?」
と、るり子は断定的な言い方をし、
「そうねえ、美津枝って、一度思い込んだら決して姿勢を変えない積極派だったから」
澄子もるり子の意見を肯定した。
それで筋は通ってくる。
�半同棲�の二年間は、
「妻と正式に離婚するまでは」
と、美津枝との結婚を一日延ばしにしてきたのであろうが、課長が尽力していたのは、離婚ではなく復縁だった。妻子が品川区の家に戻ったことで、課長の真意が分かってみれば、美津枝が怒り出すのは当然だ。
一方、課長にとって、美津枝が大阪を飛び出してきたということは、家庭の平和と出世コース、双方の破壊につながるわけである。
動機は保身。
保身のために殺意が醸成された、と解釈すれば、よくあるケースだが、論理は一貫してくる。
問題は、るり子の発言がどこまで信用できるか、裏付け取材にかかってこよう。そして、その課長氏が真犯人《ほんぼし》であったとして、浦上とどうかかわってくるか、ということも焦点の一つになろう。
そのとき、サーロインステーキがテーブルに載ったので、会話は、しばし中断された。