るり子は、食事をしながら、ナイフとフォークを手にしたままで言った。
「高橋さんは、課長にうまいこと言われて、四国へ誘い出されたに決まっています」
「美津枝さんと課長さんの関係が、ご指摘のとおりなら、そういうことになりますね」
浦上は同意した。
だれが犯人であれ、美津枝が「うまい話」に誘われて、瀬戸内海を渡ったことは事実だ。それは『伊東建設』に休暇を申し出たときの明るい表情からも、察することができる。
休暇を願い出た理由は、土佐山田の実家へ帰るということだったが、それもうそではなかったのかもしれない。
「結婚しよう。正式に、きみのご家族にごあいさつしたい」
犯人は美津枝を連れ出す口実として、そうささやいたかもしれないではないか。
その上で、何かの理由をつけて、松山でレンタカーを借りさせた、ということになろうか。
いずれにしても犯人は、慎重に犯行現場の下見をしたことだろう。浦上の旅程に合わせての、犯行リハーサルのようなことも、怠らなかったに違いない。
そう、一応の土地鑑がなければ、あのスピーディーな犯行は成立しない。
浦上の考えがそこにいったとき、それを裏付ける発言を、るり子がつづけた。課長は、よく松山へ出掛けているというのである。
「よく出掛けるって、課長さんも四国の出身ですか」
「さあ、それは知りませんが、松山には我社《うち》の事業所があります。課長は大阪支社へ来るのと同じように、松山事業所へもよく出張しています」
事業所は、他に酒田《さかた》、鹿児島にも開設されているという話だった。『不二通商』は輸入合板を主力商品としているので、それで港湾都市に事業所を設置しているようだった。
その松山事業所へよく出張していたというのなら、課長氏は、リハーサルなしで、三津浜港周辺を熟知していたことになろう。
これは、二年間の�情事�にも匹敵する有力な証言だ。
(このハイミス一人で、事件を解決してくれるというのか)
浦上は複雑な感情に見舞われながら、食事の手を休め、今度こそ、取材帳を取り出していた。
「あなたがそこまで分かっているのに、他に、美津枝さんと課長さんの関係に気付いている社員はいないのですか」
「何人かが気付けば、うわさが出るでしょう。そんなうわさ、一度も耳にしたことはありません」
「半同棲までしながら、二人はよほどうまくやっていたのですね」
「二人とも、肝心な点は巧みにカムフラージュする性格ですし、職場が大阪と東京と離れていたことも、都合がよかったのではありませんか」
風聞が立たなかったというのは、るり子が沈黙を守っていたということだろう。
もしかしたら、るり子は、そうした他人の潜行した情事のせんさくを、ひそかに楽しんでいたのかもしれない。それが、異性との縁が薄いハイミスというものかもしれないが、いまの浦上に、るり子を責める資格はない。
社内でうわさにもならないほど、うまく隠し通してきたOLと上司の関係。それを、るり子が嗅ぎ付けていなかったとしたら、こんな具合に推理は進展しない。
いずれはそこへ辿《たど》り着くとしても、美津枝の�半同棲�の相手を割り出すまでに、まだまだ時間がかかっただろう。
問題は裏付けだが、これは、いうなれば、帰納法でいけばいいわけだ。焦点は、課長氏一人に絞られる。この点も楽だ。
浦上は取材帳をテーブルに広げ、ボールペンを持ち直した。
「課長さんの名前を、教えていただきましょうか」
「教えるのは構いませんが」
取材帳を見て、急にるり子のトーンが落ちた。何だか、妙に慌てた顔になっている。まさか、これまでの話が、すべて推測というわけではあるまい。
「シロかクロかの判定は、週刊広場に任せてください。シロと判明すれば、最初に申し上げたように、この話は、一切耳にしなかったことにします。課長さんと美津枝さんがどのような男女関係を持っていたにしろ、犯行に無関係と分かれば、課長さんの名前は忘れます」
と、浦上が肉薄すると、
「何があっても、あたしのことは伏せてくれますね」
るり子は、さっきまでとは別人のような口調で念を押してきた。
浦上はちょっぴり嫌な気がした。ここまで課長氏非難の推理を展開しながら、最後に至っての逡巡《しゆんじゆん》はなぜか。
(時間を持て余しているハイミスの、ホラ話なんてのは困るよ)
浦上の内面を小さい危惧が過《よぎ》ったとき、るり子はコップの水を飲み、
「東京本社営業部の第三営業課長です」
と、口を開いた。
「何ですって?」
浦上の顔色が、同席する澄子もびっくりするほどに変わったのは、
「課長の名前は、堀井隆生《ほりいたかお》です」
と、るり子がつづけたときだった。
ふいに、浦上の声が乾いていた。
乾いた声で、浦上は畳み掛けた。
「おたくの本社は、東京駅近くの、八重洲《やえす》でしたね」
「はい、駅からビルが見えます」
「堀井さんの年齢は、四十ぐらいではありませんか」
「そうですね、三十八、九だと思います」
「第三営業課長と言いましたが、三年ほど前は、生産管理部で副課長をしていたのではないですか」
「記者さん、堀井課長をご存じですか」
るり子は目を見開くようにした。
澄子も意外という顔で、浦上とるり子の顔を見守っている。
が、だれよりもショックを受けたのが、当の浦上だった。
一昨日、龍河洞で、美津枝の実兄の一夫から美津枝の勤務先を聞き出したとき、どこかで耳にしたような社名だと思ったが、実は、三年前、浦上は『不二通商』東京本社を訪ねていたのである。
面会した相手が、生産管理部の堀井副課長だった。
浦上は、なおも早口でつづけた。
「さっき、課長の実弟が人殺しだとおっしゃいましたが、殺人は三年前の秋。事件が起きたのは、北海道の札幌ですね」
「ええ、そうでした。弟さんが逮捕されたとき、新聞に大きく報道されていたのを、覚えています」
「そうでしたか」
浦上は食べかけのステーキを片付け、キャスターをくわえていた。
ゆっくりとたばこの煙を吐きながら、
(真犯人《ほんぼし》は堀井隆生か。あの男か)
と、自分の中でつぶやいていた。
堀井が殺人犯であることを立証するためには、さらに、いくつかの手順を踏まなければならないだろう。
しかし、本来無関係な二つの点を一つに結び付けたことで、堀井の犯行は証明された、と、言っていい。浦上はそう思った。
関係のない二つの点の一つは、レンタカーの運転席で絞殺された高橋美津枝であり、一つは、第一容疑者に擬せられた浦上伸介にほかならない。
二つの点の中心に、堀井がいる。
(そうだったのか。あれが、人の恨《うら》みを買うってことか)
浦上は自分に向かって繰り返し、たばこの火を消した。
るり子も澄子も、きょとんとした目をしたままだ。
その二人の顔を交互に見て、
「犯人逮捕は時間の問題です。まったく、お二人のお陰です」
と、浦上は言った。
しかし、決着の背景は説明しなかった。瞬時には整理ができなかったからである。
ただ、確実に、終局の近付いていることだけが分かった。
奇妙な駒組で始まった一戦は、投了の場面も、これまでにない、変わったものになりそうである。
そう、物証提示以前の問題だった。無関係な二点を結ぶ中心が見えてきたという、その一事が、犯人像をくっきりと浮き彫りにしたわけだ。