神奈川県警捜査一課の二人の刑事が、湘南電車を終着の東京駅で下車、八重洲中央口の改札を出たのは、午前十一時を過ぎる頃だった。
刑事は『不二通商』東京本社へ電話をかけて、駅からの道順を聞いた。
改札口から数分とかからない場所だった。
八重洲地下街を行き、指示されたとおりに右手の階段を上がると、目の前に、細長い八階建てのビルがあった。
「内偵は、堀井本人に気付かれないようにやってくれ」
それが、淡路警部の指示だった。
堀井隆生に対しての直接尋問は、松山南署の捜査員が担当する手筈《てはず》になっている。これは、今朝の打ち合わせでの決定であり、松山からは、間もなく二人の捜査員が、空路東京へ来ることになっている。
協力態勢にある神奈川県警の目的は、堀井の指紋入手と、犯行日(八月三十日午後六時三十分頃)のアリバイ確認だった。
この種の聞き込みは、こうして、二人の刑事が一組になって行なわれるのが普通だが、先方にそれと悟られてはまずいので、一人は、地下街を上がったところで待つことにした。実際に本社ビルに入って行くほうの刑事にしても、できるだけ身分は隠すことにした。
だが、身分を伏せて、どうやって堀井に接近するか。受付係にだけは警察手帳を示すべきか。
刑事はためらいながら、ドアを押したが、すべては杞憂《きゆう》に終わった。
受付に立って、
「第三営業課長は在社されていますか」
と、問いかけると、
「もう出掛けました」
若い女子社員は、こちらの身分も確かめずに、既定事実のようなこたえ方をした。
出掛けたというのは、一人堀井のみのことではなく、営業部の部長以下、幹部全員を指していたのである。
女子社員は、受付に現われた刑事もまた、同一目的で来社したと思い込んでしまったらしい。
一瞬、刑事がことばに窮していると、
「和平興産社長の葬儀は、青山斎場で、正午からということになっております」
と、女子社員はつづけた。
その葬儀に列席するため、営業部の幹部は、全員が斎場へ赴《おもむ》いているということだろう。
「あ、そうでしたか」
刑事は一礼して、『不二通商』を出た。
「何があったのか知らんが、ごたごたした葬儀の場なら、かえって都合がいいじゃないか」
と、街路樹の下で待っていたほうの刑事が言った。
二人とも、平服だが、いまの場合はやむを得ない。実際に焼香するわけではないのだから、人込みに紛れ込んでしまえば、何とかなるだろう。
二人の刑事は地下鉄の駅へ急いだ。
地下鉄の乃木坂《のぎざか》で降りた二人の刑事は、陽当たりのいい道を青山斎場へ急いだ
告別式は正午から午後一時までなので、十分、時間に間に合った。
花輪がずらっと並んでおり、相当に、規模の大きい葬儀だった。
そして、見込みどおり、斎場は、聞き込みに適していた。列席者たちはお互いに、未知の人が多く、それが逆に無警戒な空気を醸し出していた。人間関係に、ある種の間隙があった。
『和平興産』の社長が、急性心不全で他界したのは、八月三十日の午前だという。他界してから五日後に本葬が営まれたのは、それだけ準備に手間がかかったということであり、故人の交際の広さを物語っていよう。
そして、『和平興産』が二部上場の商事会社で、『不二通商』の主要取引先であることを聞き込んだ刑事は、的を、堀井課長一人に絞った。
「堀井課長ですか、ええと、あ、あそこにいます」
と、問いかけた二人を刑事とも気付かずにこたえたのは、『和平興産』の社員だった。
社員が視線を向けた先には受付用の天幕が張られており、天幕の横に何人もの男が立っていた。右端に、中背、中年の男がいる。
フォーマルスーツの堀井は、いかにも幹部社員らしい物腰で、同じ年配の数人の男性とことばを交わしている。落ち着いた表情だった。
「殺人《ころし》の犯人《ほし》には見えないね」
と、刑事の一人がつぶやいたとき、『和平興産』の女子社員が、紙コップに入れたジュースを、盆に載せて運んできた。
数人の女子社員たちは、大勢の列席者一人一人にジュースを勧めている。天幕の横にいる堀井たちも、紙コップのジュースを受け取った。
「いいタイミングだ。堀井が手にしたあの紙コップを頂戴しよう」
「よし。堀井の指紋入手のほうは、ぼくが責任を持つ」
刑事の一人は、そんなつぶやきを残して、さり気なく天幕に近付いて行った。
もう一つの目的は、八月三十日のアリバイの確認だ。堀井本人に気付かれないよう聞き出すには、どうすればいいか。
こればかりは、よその会社、たとえば『和平興産』の社員に尋ねてもはっきりしないだろう。矛先を『不二通商』営業部に向ければ、堀井に発覚するのは時間の問題となってしまう。
そこに一人残った刑事は、しばらく逡巡《しゆんじゆん》していたが、やがて、ポイントは話の持っていき方だと思い直した。
少なくともいま、『不二通商』営業部に幹部社員は一人もいないのである。さっきの受付係と同じことで、案ずるより産むは易しかもしれない。
刑事は自分にそう言い聞かせて、控え室の電話コーナーに行った。
営業部の女子社員が、先方の電話口に出たとき、刑事は自分を名乗る代わりに、
「斎場からですが」
と、口にしていた。
「恐れ入りますが、堀井課長さんは、もうお出掛けになられましたか」
それが、瞬間的に、刑事の思い付いた話の導入だった。
電話を受けた女子社員は、もちろん、課長はとっくに会社を出た、とこたえてくる。
問題はその後だ。
「いろいろお世話になりまして」
と、刑事がことばをつづけたのは、最初の「斎場からですが」を、受けてのものだった。刑事は無意識のうちに、『和平興産』の社員を装っていた。
その上で、言った。
「このたびは、何から何まで、すっかり堀井課長さんにご迷惑をおかけしました」
これも、もう一つの導入のつもりだった。しかし、ここで、思いもかけない反応があった。
女子社員は、こっちの話を折るようにして言った。
「社長様がご危篤《きとく》と伺って、信濃町《しなのまち》の病院へ駆け付けたのは堀井課長ではありません」
同じ営業部だが、最初に見舞ったのは、吉村課長と、伊藤課長、それに吉田課長の三人だったというのである。
「あ、そうでしたかね」
刑事が、苦し紛れのことばを返すと、
「堀井課長は、社長様がお亡くなりになったあの日、出張中で、東京にはいませんでした」
と、女子社員はこたえた。
「そうそう、堀井課長さんは、大阪支社へ行ってらしたのでしたね」
これまた必死に話を合わせると、
「いいえ。堀井課長は八月二十九日から松山事業所へ出張していました」
女子社員の事務的な説明が返ってきた。
「松山?」
刑事の声が高くなった。
「堀井課長は、四国で社長様のご逝去を知って、予定を切り上げて帰ってきたのです」
とつづける女子社員の声が、刑事の中で遠くなった。
予定を変更して帰京した堀井は、三十一日に出社してきたという。
いとも簡単に、足取りの点からも、堀井は犯行を立証されてしまった、と言えようか。
あるいは犯行日(八月三十日)の松山不在を、堀井なりに工作していたのかもしれないが、主要取引先である『和平興産』社長の死が、黒い企みを、根底から崩してしまったのである。
浦上伸介を犯人に擬して、完全犯罪を意図した堀井にとって、『和平興産』社長の他界は、何と強烈なアクシデントだったろう。
�松山不在�を主張するために考えられる工作は、おそらく、東京に帰っていたということであろうが、東京にいたのであれば、堀井は営業部の他の課長、吉村や伊藤や吉田の後を追って信濃町の病院、あるいは田園調布の社長宅に出向いていなければなるまい。
『和平興産』社長の臨終に立ち会えなかったことで、堀井は三十一日の出社を(犯行日に東京にいなかったことを)明示してしまったわけである。
これで、紙コップに付着した堀井の指紋が、レンタカーの遺留指紋と一致すれば、松山からの捜査員の到着を待って、逮捕令状の請求という段取りになる。
だが、最後の瞬間まで、ことは慎重に運ばなければならない。
刑事は電話を切るとき、
「あ、堀井課長さんはここにお出でした」
と、いかにも、いま気付いたというような言い方をした。
アリバイ確認のこの電話を、堀井に悟らせないための努力だった。
斎場から電話をかけた当人が、この場で課長に出会ったというのであれば、後で女子社員が、電話があったことをわざわざ堀井に告げることもあるまい。そう考えての、刑事の工作だった。
「おじゃましました。後は堀井課長さんと直接お話します」
刑事は、最後まで『和平興産』の社員を装って、受話器を戻した。
もう一人の刑事は、堀井がジュースを飲み干したあとの紙コップを、すんなりと手に入れてきた。こっちは、いろいろ工作した電話聞き込みよりも、ずっと簡単だった。
二人の刑事が、地下鉄、東横線と乗り継いで、神奈川県警本部捜査一課に戻ったのは、壁の大時計が、午後一時半を指す頃だった。
紙コップから採取された指紋は、変体紋だった。殺人現場に残された真新しい指紋とぴたり一致した。
しかし、鑑識からの報告を受けたとき、淡路警部も、青山斎場から帰った二人の刑事も、特別な反応は示さなかった。鑑識結果が不一致とでも出れば、慌てたであろうが、すべて見込みどおりなのだ。
淡路警部は、問題の指紋用紙に二人の刑事が、指紋採取時立会人の署名をするのを待って、庁内電話を取った。
電話をかけた先は、記者クラブ『毎朝日報』のコーナーだった。
谷田を呼び出すと、
「浦上さんは自力で、あらぬ疑いを完全に晴らしましたよ」
と、指紋の一致と、堀井が松山事業所へ出張していた事実を告げ、声を低くして、こう言い添えた。
「谷田さん、かわいい後輩のお陰で、またスクープをものにしたね」