と、堀井隆生は言った。
八月二十九日は、午前中松山市に到着、夜まで『不二通商』松山事業所で仕事をし、午後九時頃、事業所の車で、道後温泉へ送ってもらったという。
松山事業所は、伊予鉄三津駅の近くだった。
「事業所へ入ってからは、夕方まで、一歩も外へ出なかったのですか」
と、矢島部長刑事が尋ねたのは、千舟町のスーパーストアで売られた、凶器のベルトとの関連からだった。
ベルトを買いにきたのは、いまや、堀井以外には考えられない。堀井は少なくとも一度、事業所から外出していなければならない。
「はい、どこへも出ませんでしたよ。それが何か?」
堀井はそう言いかけて、
「そうそう、用事ではありませんが、昼食のために、小一時間外へ出ました」
と、言い直した。
三津駅前には、三津浜港近くまでつづく、高いアーケードの商店街がある。堀井はその商店街の中の大衆食堂でオムライスを食べたというのだが、外出した時間を確かめると、
「ああ、あの日はちょうど昼休みに、東京本社からファックスで地盤改良材QCBのデータが送信されてくることになっておりましたので、午後一時を過ぎてから、出かけました」
ということだった。
ぴったりではないか。三津駅周辺から松山市の中心部までは、車でも、伊予鉄、あるいはバスでも、三十分前後だ。
千舟町のスーパーのレジは、問題のベルトが売られた日時を、八月二十九日の十三時三十二分と記録しているのである。
(まず、一つはウラが取れたな)
矢島部長刑事は、火をつけたばかりのたばこを消した。
「考えてみれば、おたくの会社の松山事業所と、高橋美津枝さんが絞殺された現場は、それほど離れてはいませんな」
「ぼくも、新聞で知ってびっくりしました」
「本当に、松山で美津枝さんと会ってはいないのですか」
「やはり、私を疑っていらっしゃるのですね」
「ま、美津枝さんと、あなたが、お互い松山にいたのは偶然、といえば、それまででしょうが」
「同じ日に、同じ松山にいたというだけで疑われるなんて、心外です。第一、私には、彼女を殺さなければならない理由がありません」
「半年前に手を切られたとおっしゃるが、別れの形に、問題はなかったのですか」
「刑事さん、勘違いなさらないでください。たとえば、長年連れ添った夫婦が離縁する、というようなケースとは違うんです」
「軽くつきあって、軽く別れた、ということですか」
「彼女の転居、転職が何よりの証明ではありませんか。私と美津枝、いえ高橋さんは、いまや完全に別々な道を歩んでいるのですよ。半年前ならまだしも、どうして、いまになって、私とあの人が争ったりしなければならないのですか」
「堀井さん、あなたは、今回に限らず、よく大阪や松山に出張されるようですが」
矢島部長刑事は話題を変えた。欠かせない確認は、『不二通商』では、出張の日程を、どのようにして決めるかということだった。
堀井が真犯人《ほんぼし》であるなら、犯行日の八月三十日を中心点に据える、二十九日からの松山出張のスケジュールは、堀井自身が決定したものでなければならない。
犯人に擬した浦上伸介の旅程は、もちろん堀井の自由にはならない。堀井のほうで、『週刊広場』の取材日程に合わせるしかないわけだ。
「なぜそんなことを訊かれるのか分かりませんが」
と、堀井ははっきり不機嫌を顔に出した。
「出張は、重役とか部長、上司の命令によることが多いですね。課長会議の案件を、私のほうから申告する場合もあります」
「いつ出発して、いつ帰るかということも、上から言ってくるのですか」
「それは、仕事の内容により、ケースバイケースですね」
「今回の松山出張はどうでしょう?」
「刑事さん、何としても、私の疑いは晴れないようですな。残念ながら、八月二十九日に松山事業所へ行くスケジュールは、部長命令ではありません。私自身が、松山事業所長や下請け業者と打ち合わせて決めました」
堀井は、日程の決定に、自らの意思が動いていたことを認めた。これは重大なポイントなので、できるなら伏せておきたかったであろうが、
(隠すのは無理だな)
と、矢島部長刑事は感じ取っていた。もちろん、この場を言い繕《つくろ》うことは、容易だろう。
だが、調べれば、すぐに分かることだ。後で発覚すれば、かえって容疑が濃くなる。
(出張日程も、意のままか)
状況証拠ではあるが、もう一つ、裏付けが出てきたな、と、ベテランは自分の中でつぶやいていた。
その矢島部長刑事が、堀井の表情の向こう側に、微妙な動きがあることに気付いたのは、それから間もなくだった。
堀井は、再度、ラークに火をつけたのである。いくらヘビースモーカーだったとしても、吸い過ぎではないか。
初対面なので、堀井が、普段どのような顔をしているのかは知らない。しかし、これだけたばこを吹かすのは、落ち着いているように見えながら、実は、平常心を欠いているためではないのか。
矢島は、ベテランのキャリアでそう捕らえていた。
松山出張の日程をだれが決めたのか。この質問は、こっちの予想以上に、堀井に打撃を与えたのかもしれない。
矢島はそんなふうにも考えてみたが、しかし、微妙な動きは、別な意味を持っていたのだった。
堀井はたばこを吹かしながら、言った。
「私がこうした取調べを受けるのは、他に容疑者がいないからですか」
「ちょっと待ってください。これは取調べではありません。参考までに、お話を伺っているのに過ぎません」
「いまも申し上げたように、彼女にとって、私は�過去�の男です。�現在�の男はマークされていないのですか」
「�現在�の男?」
「彼女には、一緒に旅行をするほど親しい交際相手がいたって、ことでしょう」
横浜に移ってからの美津枝は、どういう男性とつきあっていたのか、と、堀井は、大きくたばこの煙を、吐いた。
ようやく、堀井の言わんとする要点が分かってきた。
(そうか。浦上伸介の名前が一行も報道されないので、堀井のやつ、探りを入れてきたか)
矢島のみでなく、矢島の横でメモを取る若い刑事にもぴんときた。
あれだけデータをそろえておいたのに、捜査陣が�容疑者浦上伸介�を無視するのはなぜか。
それが、堀井には何としても、釈然としないのであろう。浦上に容疑がかけられることで、最終仕上がりを見せるはずの、完全犯罪計画なのである。
しかし、堀井のほうから「浦上」とか、『週刊広場』を口に出すわけにはいかない。
(こいつ、焦《じ》れてるな)
矢島は、胸の奥でほくそ笑んだ。この焦燥心を、うまく自供に結び付けることはできないか。
ベテラン部長刑事の脳裏を占めるのは、�任意同行�だけだ。
矢島は、堀井がたばこを吸い終えるのを、じっと待った。
堀井は、再度、次の一本に火をつけるか。それとも、そこで変化が生じるか。