だが、それは、刑事の期待とは、まったく相反するものだった。
「浦上伸介」の代わりに、堀井が持ち出してきたのは、もっと直截的な内容だった。すなわち、犯行時の、松山不在の証明である。
堀井は、浦上を犯人に仕立てることによって、身の安全を策してきた。それが、これまでの推理だった。
完全犯罪の中心に据えられているのは、身代わり犯人を突き出す工作とばかり思われてきたのだが、
「刑事さん、高橋さんが殺されたあの日、私は松山にいました。でも、それは午前中までのことでしてね」
と、堀井は言った。
「身に覚えのない潔白な人間が、何でも彼でも、いちいち刑事さんに申し上げる必要はないと思いましたが、こんなふうに犯人扱いされたのでは、はっきりさせておくべきでしょうな」
憮然とした表情であり、自信に満ちた口の利き方だった。
堀井は、その�不在�を説明する前に、もう一本、ラークに火をつけた。堀井が深々と煙を吐き出すまで、ほんの少時ではあったが、重苦しい沈黙が、今度は二人の刑事を見舞った。
(アリバイがあるのなら、なぜ、最初からそれを打ち出してこなかったのか)
矢島はそんな目で、堀井を見た。
いや、アリバイは二次工作であり、眼目はやはり一石二鳥。飽くまでも浦上を犯人に陥れることによって、自らの安全を図ろうとしたのだ。
(うん、それが一連の計画の骨子だな)
と、矢島は自分の中で繰り返していた。
そう、もくろみどおり浦上が殺人犯として逮捕されてしまえば、アリバイ工作などは不要だ。いつばれるか知れない偽装アリバイなど、表に出さないほうがいいに決まっている。
しかし、問題の「浦上」は潜行したままだし、守口市の『パレス17』に出入りしていた事実を割り出されたとあっては、堀井が疑心暗鬼となるのは当たり前だろう。
そこで持ち出してきた、不在証明か。
(それにしても、アリバイまで準備しているとはな)
と、矢島が内面のつぶやきをつづけたとき、
「三十日の朝、私が道後温泉の菊水本館で目覚めたのは事実です」
と、堀井は要点に触れた。
旅館での朝食を終えると、タクシーを呼んでもらって、JR松山駅へ直行。九時三十分発のL特急�いしづち6号�で松山を離れたというのである。
「と、いうことは、松山出張は、実質的には、二十九日の一日だけだったのですか」
「当初は三十一日までの予定でした。しかし、仕事が予想以上に、順調にはかどりましてね」
堀井はたばこを消して、口元に笑みを浮かべた。
「こうなってみると、お陰で私は救われたということでしょうかね。出張が予定どおりなら、私は犯行日の三十日、犯行現場に近い松山事業所に詰めていたわけだから、ますますもって疑われてしまう」
「予定が早く切り上がる、こうした例はよくあるのですか」
「少ないですね」
堀井は、さらに、皮肉な笑みを見せた。
「仕事が延びることは多いが、早まることは滅多にない。だから、私はついていたのですよ」
「ついていた?」
ベテラン部長刑事は、思わず、テーブルの下で両掌を握り締めた。二年間愛人関係にあった美津枝の他界を前にして、この男は平気で、「ついていた」というような言い方ができる男なのか。
しかも、単なる死亡ではない。貴様が、その手で絞め殺したのではないか。
血気盛んな、若い頃の矢島であったら、相手の胸倉をつかんでいたかもしれない。
矢島はじっと自分を押さえ、
「部長刑事《ちようさん》、言うまでもないが、尋問は慎重の上にも慎重に頼むよ。こういう被疑者だ、できるだけ完璧な形で、引っ張りたい」
と強調した署長の電話を思った。
矢島は一呼吸置いてから、尋ねた。
「ですが、あなたが松山出張から戻って出社されたのは、三十一日と聞いていますが」
「警察ってのは気味が悪いですな。そんなことまで、もう調べがついているのですか」
「何ですか、和平興産の社長が急死されたので、予定を切り上げて、東京へ戻ったと伺いましたが」
「社長が亡くなられたので、予定を切り上げたのは事実です。しかし、これは、仕事の予定ではありませんよ。仕事は、いま言ったように、一日で片付いてしまったのですから」
堀井は、仕事がスピーディーに完了したので、旅先で年休を取ったのだという。
「年休?」
「こんなチャンスは滅多《めつた》にありませんからね、前からの希望だった観光を、思い立ちました」
「年休を取って、四国観光ですか」
「そのつもりが、和平興産社長のご逝去で、予定を切り上げたわけです」
「だが、問題の三十日は、どっちみち、四国にいられたのですな」
「道後温泉で朝食をとったのですから、四国にいたと言えば、いたことになります。しかし、夜は東京に戻っていましたよ」
「間違いありませんか。あなたが東京本社へ出社したのは、三十一日と聞いていますし、和平興産に出向かれたのも、三十一日になってからではないですか」
「それは、東京駅に着いたのが、遅かったからです。でも、私は間違いなく、三十日は品川区内の、戸越の自宅で寝みました」
「三十日の帰京を、証明することができますか。もちろん、ご家族以外の方に、証明していただきたいのですが」
「何度でも言いますが、私は潔白です。こうなったら、刑事さんの納得がいくまで、いかようにもおこたえします」
「九時三十分発のL特急で、松山駅を出発したと言いましたね」
「朝の出発時から、証人が必要ですか」
堀井はまたラークに火をつけた。
証人は用意されていた。ご丁寧なことに、これは『菊水本館』の朝食時から同一行動をとる、製材工場の社長だった。
「断わっておきますが、私の行動を先方に問い合わせるときは、話をうまく持っていってくださいよ。殺人事件で警察の尋問を受けたなんて、私の信用問題です」
と、堀井が渋い顔で打ち明けた一人目の証人は、阿波池田に住む、直良《すぐら》という男だった。直良は『不二通商』松山事業所に出入りする下請け業者の一人で、製材工場も徳島県|三好《みよし》郡|池田《いけだ》町にあった。
(下請けか。下請けの証言では、鵜呑《うの》みにはできないぞ)
矢島は、ちらっと若手刑事を振り返り、警戒しながら、堀井の説明を聞いた。