「刑事さんが、何の用事ですか」
エレベーターで一階まで下りてきた堀井は、受付の前に立つ二人を見て、来訪の意味が見当つかないという顔をした。
どこにも、慌てた素振りは感じられない。なるほど、これが完全犯罪を立案実行した男か。
矢島部長刑事は、そんな目で、初対面の堀井を見た。
背格好は、確かに浦上伸介にそっくりだ。しかし、印象は、全然別なものだった。
服装にあまり気を遣わないルポライターと違って、営業課長は純白なワイシャツで、柄物のしゃれたネクタイが似合っている。
髪もきれいに七三に分けているし、左の薬指には、金色に光る指輪があった。接客態度も、口の利き方も、飽くまでも丁重である。
殺人者の影など、どこにもちらついていない、と言っていい。ともかく、堀井は落ち着いている。
「受付で、立ち話というわけにもいかないのですが」
と、口調を改める部長刑事のほうに、緊張が尾を引いている。
「私はここでも構いません。用件をおっしゃってください」
堀井は二人の刑事を見て、さっきまで葬儀に列席していたことを言い、そのしわ寄せで仕事がたまっているのだと言った。
どうしても時間がとれないというのなら、仕方がない。
矢島部長刑事は、遠回しな説明は避けた。
「ここで、高橋美津枝さんのことを伺うわけにはいかないでしょう」
「高橋美津枝さん?」
堀井は表情を変えなかったが、こんな問答で時間を食ってはかなわない。
「一昨日、守口市のマンション、パレス17へ行ってきました」
矢島がその一言に力を込めると、初めて、かすかではあるが、堀井の目に、動きが生じた。
「ちょっとお待ちください」
堀井は受付の電話を取ると、営業第三課へかけ、受付の女子社員の視線を気にするようにして、短いことばを交わしていたが、すぐに受話器を戻した。
「近くに、静かな喫茶店があります」
堀井はそう言い、二人の刑事を先導して、『不二通商』ビルを出た。
堀井は街路樹の下の舗道を歩いて、三軒先のビルに入って行った。二階に、落ち着いたムードの喫茶店があった。
広い店内は空いていた。一番奥のボックスに腰を下ろすと、車の往来が激しい道路越しに東京駅が見える。
「隠し立てしても、仕様がないようですな」
堀井は、注文したコーヒーが三つ、テーブルに載ったところで、金のダンヒルでラークに火をつけた。たばこを挟む指先は、女性のように白くてしなやかだった。
「美津枝も」
と、呼び捨てで言いかけて、
「高橋さんも、とんだことになったものですね」
堀井は、改めて、二人の刑事の顔を見た。それは、(美津枝のことは承知しているが)事件そのものは自分には関係ない、と、言外に匂わせる話しかけだった。
守口市の『パレス17』を、いきなり突き付けられたので、美津枝との関係だけは認めざるを得ないと観念したようである。しかし、松山の犯行については、しらを切るつもりなのか。
そう、堀井の態度は、無実で一貫していた。
堀井は言った。
「刑事さん、高橋さんのことで話を聞きたいとおっしゃいましたね」
「相当、深い関係にあったようですな」
「深いか、浅いか。それは、人、それぞれの見方によっても異なるでしょうが、私にとっては、もう過去のことです。家庭の平和を乱すような形で、過去を表面に出して欲しくありません」
「あなたは、親しくしていた女性が殺されたというのに、そんな自分勝手な言い方しかできないのですか」
「私は、新聞報道以上のことを知るわけもありませんが、各新聞とも、殺人の背景は男女関係の縺《もつ》れにあるらしいと、報道していたと思いますが」
「われわれもそう見ています」
「だったら、高橋さんには、現在親しく交際する男性がいたということでしょう。過去の相手であった私などの、出る幕ではありません」
「高橋美津枝さんと、あなたの交際は二年前からだそうですな」
「こうして、会社へ訪ねてこられたのは、私のことを、十分にお調べになった結果でしょう。でしたら、くどく説明することはありませんが、私と高橋さんは、半年前にきれいに別れました」
「長いこと親しくされていたのに、別れた理由は何ですか」
矢島部長刑事は、承知している事実を、あえて尋ねてみた。
堀井は隠さなかった。
「私は、ある事情で妻や子供と別居していました。高橋さんと間違いを起こしたのは、その間のことでした」
「高橋さんとの間で、結婚を話し合ったことはなかったのですか」
「刑事さん、何か誤解なさっているのではありませんか。私と高橋さんは、将来を誓い合うような、そんな関係ではありません」
「遊びだったというのですか」
「高橋さんも、そのつもりだったと思いますよ。妻子と別居中とはいえ、これはある事情があってのもので、私は離婚していたわけではありません」
「だから、奥さんと子供さんが家に戻ってきたので、高橋さんとの関係は清算された、と、こういうのですな」
「家内が戻ってきたのに、他の女性との関係をつづけるなんて、それこそ背信行為じゃありませんか。そんなことはできません」
堀井はたばこを消した。
勝手な理屈だった。が、ともあれ半年前に手を切って以後は、一度も、美津枝には会っていない。それが堀井の、平然とした主張だった。
「高橋美津枝さんが、その後会社を辞めた理由も、ご存じないとおっしゃるのですか」
「理由も何も、私は、彼女が退社したこと自体、今度の事件が起こるまで、知りませんでしたよ」
「高橋さんが、三ヵ月前に横浜のマンションへ転居されたことも、本当に聞いていないというのですか」
「それも新聞報道で知ったのですが、彼女が東京へ転職していたなんて、それこそ寝耳に水でした。横浜に住み、東京で働いていたのに、私に電話一本寄越さなかったということは、お互いの関係が、完全に過去のものとなった証明ではないでしょうか」
堀井の態度は一定している。
美津枝にとって、自分は過去の人間だ。新聞が報道するように、殺人の動機が男女関係の縺《もつ》れにあるならば、犯人は�過去�の自分ではなくて、転居、転職した美津枝の、�現在�の生活の中にひそんでいるのではないか。
堀井ははっきりとそう言い、
「横浜のマンションへ移って以来の、彼女の男性関係はどうなっているのですか」
と、反問してくる始末だった。
矢島部長刑事は、苦り切った表情で、コーヒーに口をつけた。コーヒーも苦い。
(こいつ、こんな言い分で通せると思っているのか)
ちらっと若い刑事を振り返ったベテランの目が、そう語っている。
しかし、若い刑事にも注意したように、指紋を叩き付けるのは、まだ早い。その前に、踏まなければならない手順がある。
矢島は、気を鎮めるように、ゆっくりとコーヒーを飲んでから言った。
「ところで堀井さん、あなたは、八月二十九日から、四国へ、それも松山事業所へ出張されていたそうですな」
「そんなことまで、調べがついているのですか」
堀井は参ったなあ、と、苦笑したが、しかし、顔色を変えるわけでもなく、
「話がこうなった以上、松山出張のことは、誤解を避けるためにも、私のほうから申し上げておくべきでしょうね」
と、また新しいラークに火をつけた。
矢島もセブンスターをくわえ、
(どんな言い訳を考えたんだ)
というような視線を、堀井に向けたままライターを取り出した。堀井のようなダンヒルではなく、こっちは安物の百円ライターだった。
完全犯罪を意図した堀井に読み違いがあったとしたら、大事な取引先である『和平興産』社長の、急死というアクシデントだ。
「こればっかりは、計算外でしょう。他の営業課長と違って、堀井が和平興産へ行ったのは、三十一日になってからです。三十日には、見せたくても、顔を見せることができなかった。いやでも、犯行日に松山にいたことを証明する結果になるのではないですか」
と、淡路警部はさっきの電話で言った。矢島部長刑事も同感だ。
堀井は、この予想もしなかったであろう事態を、口先で、いかに補填《ほてん》するつもりなのか。
「どういう因縁でしょうか。彼女が殺されたあの日、私は確かに松山にいました」
堀井はたばこの煙を吐き、矢島部長刑事の目を、まっすぐに見て話し始めた。口調も、態度も正常だった。いささかの乱れも、感じられない。