下車したのは、浦上と澄子のほかには、一目で土地の人間と分かる、小柄な中年女性一人だけだ。中年女性は、駅員と親しそうにことばを交わして、改札口を出て行った。
なるほど、小さい待合室の中央に、なぜか大きい囲炉裏《いろり》ができている。
待合室は無人だった。駅前もひっそりしており、何軒かある商店にも、人影は見えない。
駅前は、右にカーブするだらだら坂になっている。
三、四分歩いて、坂を上り切ったところが、大歩危橋だ。
橋のたもとに、路線バスが一台とまっていた。ここを折り返し点とする阿波池田行きの四国交通バスは、時間調整のために停車しているのであろうが、駅の待合室と同じことで、客の姿は一人も見えない。
浦上と澄子は、高い橋を渡った。
橋の下に土讃本線があり、そのはるか下に、池田方向へ流れて行く渓流が見下ろせる。
「浦上さん、四万十川《しまんとがわ》へ行ったことがありますか」
澄子が、大歩危橋を渡りながら、話しかけてきた。
「今回、長年の夢が実現するはずでしたが、この事件に巻き込まれて、残念ながら宇和島どまりでした」
と、浦上がこたえると、澄子は四国を代表する二つの川の違いを口にした。
清流四万十川は、上流から中村の河口まで、ずっと険しい山地を、S字形に激しく蛇行しているのであるが、吉野川は、池田町で流れが右にカーブするだけで、四国山脈の上流から徳島の河口まで、ほとんど直線的に流れているというのである。
すなわち、池田までの上流は南北に流れ、池田からは東西に流れて、紀伊水道へと至るわけだ。
「あたし、四万十川も好きですが、吉野川上流の、この辺りの眺めが素晴らしいと思います」
澄子は、長い橋を渡り、国道32号線へ出たところで、足をとめた。吉野川沿いに南下して、南国高知へとつづく崖下の国道である。トラックはよく走ってくるが、やはり人影は少ない。
ドライブインは、この国道を北上し、池田方向へ十五分ほど歩いた崖っ縁にあった。ドライブインの手前を下りると、堀井が乗船したと主張する、観光船の発着場となる。
浦上も足をとめ、キャスターをくわえて、周囲の高い山脈《やまなみ》を見回した。五日前、車窓越しに圧倒された風景だが、こうして、渓谷沿いの国道に立って見上げる高い山々は、五日前にも増して、壮観だった。
この緑多い自然が、大阪という大都会を発端とする、不倫なオフィスラブと殺人に、どうかかわってくるというのか。
浦上は、ゆっくりと、一本のたばこを吹かした。
「さっき坪尻を通ったけど、新改もあのような駅なのかな」
浦上が山頂を見上げたまま、つぶやくと、
「はい、似た感じですわ」
と、澄子はこたえ、回転が速いだけに、すぐ、ぴんときたようだ。
澄子は言った。
「スイッチバックの駅が、このアリバイに関係してくるのですか」
「何かのヒントにでもなれば、と、毎朝日報にいる先輩は言ってるのですけどね」
浦上はたばこを足元へ捨て、靴先で踏みつぶした。
その、足元へ向けられた視線がそのままずれて、はるか眼下の渓流を改めて見やったとき、
「そうか、スイッチバックねえ」
浦上は自分に向かってつぶやき、ふいに顔を上げると、今度は、高知方向へと下って行く国道に目を向けた。
トラックが二台、通り過ぎて行った。走り去って行く大型トラックを追いかけるようにして、浦上は澄子に話しかけた。
「変だと思ったことはありませんか」
「は?」
澄子はびっくりしたように、浦上を見た。話し方が唐突だったし、伏線とか予備知識抜きで、いきなり変ではないかと言われても、何のことか分からない。
「川の流れを見てください」
浦上は眼下を指差した。懸命に、思考を整理する顔だった。
「いいですか。ようく確かめてください」
浦上は、今度は国道を振り返った。
「国道は、高知へ抜けるまで、こうして下り坂がつづくわけでしょう」
「はい。池田からは列車も国道も、ずっと下って行くだけです」
「変じゃないですか。吉野川は、逆に、上手《かみて》である池田のほうへ流れている」
「そう言えばそうですね。でも、そんなふうに吉野川を見たこともなければ、そんなこと、考えたりしませんでしたわ」
と、澄子はこたえたが、浦上はそれを聞いていなかった。返事を求める問いかけではなかったからである。
浦上の関心は地形にあるわけではなかった。そのこと自体は、どうでもいい。
(思いもよらない、スイッチバックかもしれないぞ)
平行しながら逆方向に下って行く、国道と川の流れの対比を目にして、浦上の感じたのが、そのことだった。
国道と土讃本線は、いわば吉野川を溯《さかのぼ》りながら、南へ下っているわけだ。浦上の着眼がそれだった。
浦上はショルダーバッグから、例の何枚かのコピーを取り出し、
「ここにはないルート、もう一枚、全然発想の異なるルートが隠されているってことですよ」
と、口元を引き締めた。
澄子は笑みを浮かべた。
「浦上さんて、川の流れを見て、そんなことを思い付く人ですか」
「いえ、こんな例は初めてです。ともかく、あそこで冷たいものでも飲みましょう」
浦上は、駐車場の先にあるレストハウスに向かって、歩き出した。