パトカーより数分早く不忍池に到着していたのは、救急車だった。
救急車は、しかし、刑事たちを乗せたパトカーが来るまで、現場を離れなかった。被害者の女性は、すでに、完全に絶命していたためである。
「左胸を一突きにされています。ほとんど即死状態です」
救急隊員は、上野西署の刑事課長に向かって報告した。救急車は、緊急出動をパトカーにリレーする形で、引き上げて行った。
「被害者《がいしや》がホトケさんになってしまったのでは、救急車の出番じゃないな」
ぼそっとつぶやいたのは、上野西署刑事課捜査係主任の清水《しみず》部長刑事だった。
清水は四十一歳。拝命以来、ほとんど私服一筋に生きてきた男だが、いわゆるデカらしくない刑事だった。
清水は、態度も、口の利《き》き方もおとなしい。丸顔のせいもあるけれど、刑事というよりは、小商人といった感じを与えることの方が多い。
そのベテランが、三人の目撃者から、異変発生当時の事情を聞いた。三人とも緊張しているだけに、雑談を交えながら聞き出す清水は、正に適役といえる。
清水は街灯の下のベンチで、一人ずつ別々に話を聞いた。
結果は一致していた。
(1) 女の悲鳴が聞こえたのは、すなわち事件が発生したのは、午後六時五分頃。
(2) 闇の中に逃亡した男は優に一メートル八十はある長身で、黒っぽいコートを着ていたらしい。
三人とも、逃げて行く男を、街灯の明かりで、ちらっと目にしている。しかし、その記憶は、男性と女性とでは違っていた。
男性二人は、犯人は眼鏡《めがね》をかけていたようだと言い、女性の目撃者は、眼鏡には気付かなかったとこたえている。
瞬時の目撃ではあるし、暗がりなので、印象が分かれるのは、やむを得ないことだった。
しかし、(1)と(2)の確認が取れたことは大きい収穫だ。
普通の捜査は、これらの割り出しに腐心するのだが、今回は、その最初の手間が省略できたわけである。
しかも、この初動捜査の段階で、もうひとつの幸運が重なった。
殺人事件発生の町のうわさを耳にして、
「もしかしたら」
と、上野西署へ電話をかけてきたのが、根津の下宿へ帰ったばかりの、男子学生だった。
これまた、重要な情報だった。
それは、犯行が通り魔的なものではないことを、裏付けていたからである。
「被害者《がいしや》と犯人《ほし》は、前からの知り合いか」
清水部長刑事は、本署を経由する男子学生からの通報を、不忍池の殺人現場で知らされたとき、
「この事件《やま》は、すぐに片が付くのではないかね」
と、若手の刑事に話しかけていた。
だが、目撃証言には恵まれたものの、鑑識係の方はすっきりしなかった。
初動捜査では、死体の司法検視にも増して重要なのが、鑑識であり、全力投球されるのが、犯人の遺留品収集だ。
しかし、これが、皆無に等しいのである。
まず、凶器が発見されない。心臓を一突きにした傷口から見て、凶器は果物ナイフと思われるのだが、それが、どこにも落ちていない。
犯人には、重要な証拠品となる凶器を、持ち去る余裕があったということか。
恐らく、若干の返り血は浴びているであろうが、
「この時季に黒っぽいコートを着ていたというのが、返り血を避けるための準備工作だったとしたら、犯人《ほし》は、相当に、計画的なやつだな」
刑事課長は、鑑識係の動きを見守りながら、次第に、表情を厳しくさせていた。
犯人が返り血を浴びたコートを脱ぎ、凶器を隠蔽《いんぺい》して、大都会の夜の底へ紛れ込んでしまったら、割り出しは容易ではない。
室内の犯行と違って、指紋も、検出されなかった。
いや、それが計画的なら、池畔の殺人であったとしても、犯人は、手袋ぐらい用意していたかもしれない。
では、足跡はどうか。
屋外の凶行の場合は、足跡が決め手となることが多いけれど、それも駄目だった。現場は舗装こそされていないものの、柔かい泥土ではないので、足跡は一点も採取できなかった。
唯一の手がかりは、柳の下に残された死体ということになる。
被害者の推定年齢は、二十歳から三十歳。やせ型の美人だった。夜目にも白い肌であり、髪が長かった。身長一メートル五十四。
黒と白の、細かいストライプのツーピース姿だった。ヒールの高い靴を履《は》いているのは、小柄を隠すためだろう。
右の腕にはブレスレット、左には腕時計をつけているが、どちらも、一際《ひときわ》目立つ大きめなデザインだった。
「主任」
若手刑事が、清水部長刑事の背後から話しかけた。
「そろそろ廃《すた》れてきたようですが、ボディコン・ギャルってやつですね」
「何だい、そのボディコンって」
「ウエストが、ぐっと絞《しぼ》られているでしょう。ええ、このように、体の線をですね、バストやヒップラインを強調した服装のことですがね」
「なるほど。このホトケさんのような、タイトスカートのことを言うのかね」
「ディスコなんかで、ボディコンはもてるって話です」
「ほう、若いだけに詳しいな」
「もてるってことは、逆に言えば、簡単に、男に許してしまうって意味でもあるらしいのですけどね」
「男に狙《ねら》われ易いタイプ。男性からのアタックを待っている女ってことか」
「そりゃ、一概には言えないでしょうが、ボディコン・ギャルというと、とかく、そうした目で見られているようです」
「確かに、このホトケさんも、男にはもてただろう。これだけの別嬪《べつぴん》だからな」
「主任、本署へ電話をかけてきてくれた学生の情報から推しても、男女関係のもつれが発端じゃないでしょうか」
「私も、そうは思うけど、捜査に先入観は禁物だよ」
ベテラン部長刑事は、背後の若手に向かってそんなふうにことばを返しながらも、視線は、車に乗せられて移送される死者に向けられたままだった。
小柄でほっそりした死者は、左の薬指に金の指輪をはめていた。あるいは、若い人妻なのかもしれない。しかし、最近は、独身者でも薬指にはめている例が少なくないので、指輪だけでは識別できない。
死者はポシェットを所持していた。
たばこ好きだったのか、ショートホープと小さい銀のライター、それと五万円余りの現金が入っていたけれど、直接身元を明かすようなものは発見されなかった。
が、手がかりが、皆無というわけではなかった。
差し出す前の郵便はがきが、一通、ポシェットの中から出てきたのである。
「何だ、これは」
刑事の一人は、はがきを返してみた。
裏面は空白で、一字も記されていない。
しかし、表面のあて名は、ワープロで、明確に印刷されてあった。
仙台市一番町二二八 中阪ビル2F 浅野機器仙台支社営業部第一課長 村松俊昭様
差出人の方は、住所も氏名も、記入されていない。
筆跡を残さないワープロなので、死んでいた女性自身が出そうとしていたはがきなのか、それとも別のだれか(たとえば男性)から、あて名印刷だけを依頼されたものなのか、その点は分からない。
だが、それが、ワープロにデータ処理されている住所録からの印刷なら、殺された女性は、『浅野機器』仙台支社と関係がある会社のOL、ということになろうか。あるいは、『浅野機器』本社の人間かもしれない。
警視庁捜査一課の応援で、上野西署に捜査本部が設置されることになった。
同時に、電話帳で、『浅野機器』が調べられた。
しかし、東京都内に、同名の会社は存在しなかった。
『浅野機器』とは、どういう業務内容で、どこに本社を置く会社なのか。
東京で刺殺された人間が「仙台支社」あてのはがきを所持していたことで、本社は都内にあるのだろう、と、だれもが単純に考えた。
だが、東京に本社もなければ出張所もないとすると、捜査は、「仙台支社」から着手するのが順序となる。