大型台風の北上に伴い、秋雨前線が活発になっている。
黒雲が厚いためか、東京は夕暮れが早かった。
空が暮れると、街は、急に夜になった。
十月三日、月曜日。
広小路《ひろこうじ》辺りの、繁華街の明かりが目立つようになると、上野の森は、都心とは思えない闇に包まれた。
不忍《しのばずの》池《いけ》も、正確に、暗さを増しており、水面を埋める蓮《はす》は、一塊の影となった。
上野公園南部に位置する不忍池は、周囲二キロ。やがて秋が深まり、蓮が葉を落とすと、渡り鳥の季節を迎えるのであるが、その夜の不忍池は、厚い雨雲を反映したかのように、不気味に静まり返っていた。
暗いといっても、まだ時間は早い。ようやく、午後六時になったところである。
池畔をそぞろ歩く人影も、決して少なくはないのだが、雨が近付いているせいで、風景全体が、ひっそりしている。
不忍池は、近江《おうみ》の琵琶湖《びわこ》を模《も》して、造園されたと伝えられている。池の中の島を、竹生島《ちくぶじま》になぞらえ、島には朱塗りの弁天堂が建立《こんりゆう》されている。
島へ通じているのが天竜橋であり、橋からやや離れた池畔の柳の下に、一組の男女がたたずんでいた。
男は長身だが、女性の方は小柄だった。
男女がたたずむ辺りは、街灯の明かりも届かない、深い暗がりとなっている。柳が、大きく枝を垂らしているのである。
しかし、池の端を歩く人影が少なくなかったとはいえ、木陰の男女を、特に意識した人間はいなかった。男女が寄り添っているのは、決して、珍しい光景ではなかったからである。アベックが多い場所だった。
だが、特別注意した人間はいなかったけれども、その男女の会話を、小耳に挟《はさ》んだ男子学生がいた。学生は根津《ねづ》に下宿しており、上野公園を横切るのが、通学の近道になっていた。
後で、上野西署へ通報電話をかけてきたとき、
「女性の方は、泣き声だったような気がします」
と、その学生は告げている。
『ね、冗談よね。本気で、そんなこと言ってるわけではないのでしょ』
『いつまで、くだらない夢を見ているんだ!』
それが、学生の記憶している男女の会話だった。
柳の木陰に異変が生じたのは、(それから後の、別の三人の証言を綜合すると)男子学生が池畔を通り過ぎた直後、ということになる。
一声、女の悲鳴が闇を裂いた。
「た、助けて!」
悲鳴は短くて低かったが、天竜橋の先を通りかかった三人の男女が、それをはっきりと耳にしている。
悲鳴と同時に、柳の下の影が、二つに分かれた。
小柄な女性は、柳の根元に崩れるように屈《かが》み込み、長身の男の方は、文字通り脱兎《だつと》のように駆《か》け出していた。
「早く、早く助けなければ!」
三人の男女が、一瞬|躊躇《ちゆうちよ》しているうちに、大股で走り去る長身の影は、中央通りの方向へと消え去った。
三人の男女は、吸い寄せられるようにして、柳の下へ走り寄った。
一人がライターをつけた。
小柄な女は、左胸から血を流して倒れていた。
「一一〇番だ」
「いえ、一一九番よ」
てんでに口走る声が上ずっていた。
三人の目撃者のうち、ブルゾン姿の男女二人は恋人同士。もう一人のスーツの男性は、ブルゾンの二人とは全く無関係な二十代のサラリーマン。彼はガールフレンドとの待ち合わせで、夜の上野公園へやってきたのだった。
公園下の巡査派出所へ、急を知らせに駆けて行ったのは、スーツを着た若いサラリーマンである。
「女性が刺されました。息も絶え絶えのようです」
そのとき、派出所の掛時計は、午後六時九分を指していた。
メーンストリートは、もちろん、まだ宵《よい》の口である。