不忍池に足を向け、池の中の島を通って、反対側に出た。
「昨夜の犯行現場はここです」
部長刑事が、村松の顔色を窺《うかが》うようにして池畔の柳の下で足をとめると、
「淑子を、いえ、淑子さんを殺したのは、家内の真理ではないでしょうか」
村松は、淑子と自分とのこれまでの関係を、はっきりと認めた上で言った。
冷戦がつづく夫婦は、なぜ、お互いが、お互いを犯人視するのだろうか。しかし、何があろうと、真理が実行犯ということだけは、有り得ない。
大都会の夜の底へ紛れ込んで行ったのは、長身の男性なのである。
背の高い男。これははっきりしている。犯人は、決して小柄な女性ではない。
部長刑事がその点を説明すると、
「刑事さんは、それでさっきから、じろじろとぼくを見ていたのですか」
と、村松は言った。
村松は上野西署へ一歩足を踏み入れたときから、こちこちに堅くなっていたが、注視されていることには、気付いていたのだろう。
が、村松は、部長刑事の新しい説明を聞いても、主張を改めなかった。
「犯人は、やはり真理だと思います。動機の点から考えても、真理なら、ぴたり当てはまります」
「動機は、夫の愛情を奪った女に対する憎しみですか」
「それもあります。もちろんそれもあるでしょうが、本当の眼目は、ぼくを殺人犯に陥《おとしい》れることだったのだと思います」
村松は、大きく垂れ下がる柳の枝に手を伸ばした。
蓮が密生する池には、昼前の、鈍い日が落ちている。
「真理は一日も早く、離婚届に判を押させたかったのです。ぼくが殺人犯なんてことになれば、これはもう、否応なしに離婚に追い込まれるでしょう」
「率直にお尋ねします、奥さんにも愛人がいるそうですな」
「こういう言い方は何ですが、ぼくの場合は、オフィスラブが尾を引いた結果の、浮気です。淑子さんは人妻なのですよ。結婚している同士が、一緒になれるわけはありません。しかし、真理の相手は独身です。真理はぼくを追い出して、その男と結婚しようと本気で考えているのです」
「でも、そのために殺人までするなんて」
「真理は、気の強い女です。彼女は心底から淑子さんを憎悪していました。でも、真理自身に愛人がいるので、夫の背信を正面切って衝《つ》くことができない」
そこで、憎悪の対象である淑子を刺殺し、自分を犯人に仕立てようとしたのに違いない、と、村松は強調するのである。
「刑事さん、一石二鳥ということばがありますね」
「しかしですな、警察は、あなたの心情だけで動くわけにはいかない」
「心情だけ? 刑事さん何を言ってるのですか」
村松は、刑事が仙台の『ハイツ・エコー』を訪ねたのは、明確な手がかりがあってのことではなかったのか、と、死者のポシェットの中から発見された郵便はがきを問題とした。
「ぼくの名前が早々と表面に出てきたのは、そのはがきのためでしょう。それこそ、最初からぼくに疑惑の目を向けさせるための、真理の工作に違いありません」
「なるほど。そう言われてみれば、そういう見方もあるかもしれませんな」
部長刑事は両腕を組み、池の中の朱塗りの弁天堂に目を向けた。
その部長刑事をのぞき込んで、
「こうなってみると、ぼくが犯人に仕立てられようとしている根拠は、もう一つあります」
村松は吐息するようにつづけた。
「刑事さん、犯行時間は、昨日の午後六時五分頃だと言いましたね」
「ええ、これは複数の目撃者の証言からいっても、間違いのないところです」
「その時間、ぼくには、アリバイというものが成立しないかもしれないのです」
「アリバイがない?」
「もちろん、ぼくは犯人ではありません。ただ、それをだれが証明してくれるかというと、だれもいないのです」
真犯人、すなわち妻の真理によって、意図的にアリバイを消されたのだ、と、村松は、さらに大きく吐息した。
村松は、横浜市西区南幸の『岡野ホテル』に、十月二日、三日、四日と投宿することになっていた。予約が取れると同時に、淑子にも、事前にその旨を伝えて置いた。
「二日の日曜日、岡野ホテルにチェックインすると、淑子さんからのメッセージが届いていました。ええ、フロントに電話が入っていたのです」
「それが、あなたの言うアリバイを消されたことと、どうかかわってくるのですか」
「伝言は、デートの約束でした。三日の月曜日、そう、昨日ですね、昨日の退社後会いたいという内容で、時間と場所が指定してありました」
それは、午後五時三十分に、横浜駅西口にあるデパート高島屋一階の噴水付近で待つというものだった。
「無論、あなたは指定された通りに、高島屋へ行かれたわけですね」
「はい。午後五時の終業時間を待って、すぐに会社を出ました。関内駅から地下鉄を利用して、約束の時間よりやや遅れて、噴水前の広場に到着しました」
しかし、いくら待っても、淑子はやってこなかった。現われないのが当然だ。昨日のその時間帯、淑子は上野にいたのだから。
「ぼくは、六時半まで待ちました」
「ほう、そんなに長いこと、来るはずもない淑子さんを待っていたのですか」
「刑事さん、ぼくがそうして過ごしていたのは、正に、淑子さんが刺殺されていた犯行時間でしょ。ぼくが警察にマークされ、この事実を主張しても、だれが、ぼくがそこにいたことを証明してくれるというのですか」
人妻とのデート。いわば不倫の媾曳《あいびき》だ。村松は人目を避けるようにして、たばこ売場の陰にたたずんでいたというのである。
意識的に自分の存在を隠していたのだから、夕方の、混雑したデパートにいたことの裏付けは、まず取れないだろう。村松は、自分が不利な立場に置かれていることを繰り返し、
「岡野ホテルに届いていたメッセージは、偽物に決まっています。電話をかけてきた女性は、淑子さんではなく、真理に間違いありません」
と、ことばに力を込めた。
村松がチェックインする前に、女性からの電話でメッセージが入っていたのは、事実だろう。
しかし、もちろん真理は、電話などかけてはいない、と、否定するだろう。いまとなっては、水掛け論だ。
と、いうことは、その電話は、実は村松がだれかを使ってかけさせた、村松自身の工作という可能性も考えられるのではないか。
死者が淑子と判明したときの村松の驚愕。あれは決して演技ではない。ベテラン部長刑事は、そう感じているのだが、驚愕の内容が、部長刑事が受けとめたものとは異なっていたとしたら、どうなるのか。
「高島屋で一時間余り待っても、彼女は現われない。あなたは自分から、電話をかけるなどして、彼女に連絡をとろうとはしなかったのですか」
「午後六時半といえば、ご亭主が、そろそろ帰宅している時間ですよ。ぼくの方から、アパートへ、電話などかけられるわけはないでしょう」
「今日はどうですか。ご主人の出勤後を見計らって、電話を入れようとはしなかったのですか」
「それは、しませんでした。淑子さんも、近くのコンビニエンスストアに勤めていますし、実は今夜、ぼくたち夫婦は、淑子さん夫婦と、四人で話し合うことになっていましたので」
と、村松の口にしたのが、(横浜へ出向いた小太りな刑事が、高峰家の応接間で真理から説明された)談合のことだった。
「刑事さん、今夜の話し合いは、真理が強く主張した結果ですが、すべてが、ぼくを殺人犯に仕立てるための、計画的なものだったのではないでしょうか」
村松の声が高ぶってきた。
「真理は、ぼくを陥れようとしているのです。真犯人は、絶対に真理です。真理に間違いありません!」
「しかしですな」
部長刑事は、組んでいた両腕を解いた。村松が繰り返す、真理犯人説の動機は、一応の説得力を持っている。だが、動機が、いかに説得性を備えていようとも、小柄な女性である真理が、真犯人ということは、それこそ絶対に有り得ないのだ。
部長刑事が、もう一度それを口にしようとすると、
「ぼくと同じように、背の高い男を連れてくればいいんでしょ」
村松は先回りをして言った。
「いますよ。若い恋人たちに目撃された通りの、長身の男がいます。しかも、この男は、薄い色付きの、キザな眼鏡をかけています」
吐き捨てるような口調だった。言われるまでもなく、その男が、真理の愛人であることを暗示している。
「真犯人である真理に命じられて、あの男が動いたに違いありません。あの男なら、淑子さんも、もう一つ警戒心を欠いていたでしょうからね」
「顔見知り、とでもいうのですか」
「ええ、そうですよ。浅野機器の社長の長男でしてね、常務のポストを与えられている男です」
村松の口調が、一層いまいましいものに変わっていた。