往路とは別の路線バスに乗り、JR戸塚《とつか》駅へ出た。
『松見アパート』の家主に電話を入れたのは、戸塚駅東口の喫茶店で、一息入れてからである。
裏付けは簡単にとれた。
朴訥《ぼくとつ》そうな声の家主は、
「宮本さんの奥さんも、とんだ災難に見舞われたものです。私たち夫婦も、これからお焼香に出かけるところです」
と、丁重に悔《くや》みを言ってから、浦上の質問にこたえた。
「はい、確かにおとつい、鳥取みやげの二十世紀梨を頂戴しました」
その場の状況も、時間帯も、宮本が言った通りだった。
午後七時からのNHKニュースが放映されており、天皇陛下のご容体が話題になった、と、家主は宮本の発言を敷衍《ふえん》した。
「宮本は、二重丸ではないね」
谷田は、浦上の報告を聞いて、うなずいた。
電話を終えて、テーブルに戻った浦上は改めてコーヒーを飲み、キャスターに火をつけた。たばこをくゆらしながら、大判の時刻表を取り出した。
浦上にとって、時刻表は、取材の必需品だ。一眼レフのカメラと一緒に、必ず、ショルダーバッグに入っている。
浦上は、新横浜駅から鶴見駅までの所要時間を当たった。
「鶴見駅から松見アパートまで、どのくらいかかるか、聞いていますか」
「確か、徒歩十分足らずという話だった」
「宮本の主張に、うそはありませんね」
浦上はたばこを消した。
新横浜から鶴見へ来るには、東神奈川で乗り換えるのだが、新横浜—東神奈川間正味九分。東神奈川—鶴見間は正味七分だった。
これに、待ち時間と、鶴見駅から『松見アパート』までの徒歩時間を加えると、(十八時二十八分に新横浜に下車した宮本は)ちょうど、こたえた通りの時間に、家主の部屋へ到着した計算になる。
たった二日前のことなので、家主の記憶違いといった事態も考えられない。
「あとは、仙台へ引き上げて行った村松次第ですが、やはり、真理と手塚の線がクローズアップされてきますか」
「うん、横浜港が見えるホテルのレストランが、でかい意味を持ってくるか」
「レストランは満席だったのでしょ。客の中に、だれかいないのですかね。真理とフランス料理を食べていた長身の男が、本当に手塚であったのか、そうでないのか、ヒントを与えてくれる目撃者が、一人ぐらいいたっていい」
「われわれでは限度があるけれど、刑事《でか》さんがその気になれば、一昨夜の客をチェックすることは不可能ではないだろう」
「そう、真理と同じように、予約の客も結構いたのではないですか。予約客なら、捜し出すのも容易でしょう」
「しかし、ディナーを食ったのが、実際にアリバイ工作なら、さっきも話し合ったように、シッポをつかまれる失敗《へま》はしていないだろう」
谷田は首を振ったものの、
「真理と手塚の線を追うとすれば、正に、『ホテル・サンライズ』のレストランが突破口だね」
と、自分に言い聞かせるように、つぶやいてから、浦上を見た。
「きみは、これからどうする?」
「先輩は記者クラブへ戻りますか」
「ああ、クラブへ顔を出して、捜査一課へ淡路警部を訪ねてみよう」
「真理と手塚の線に探りを入れますか。じゃ、ぼくは、『週刊広場』の編集部で、先輩の取材待ちということにするかな」
浦上は所在無げに、時刻表をめくった。
神田の『週刊広場』へ上がる前に、もう一度、上野西署へ顔を出しておくか、と、考えかけて、浦上は、
「あれ?」
と、低い声を漏らした。目は、時刻表の一点に向けられている。
微妙な発見があった。
「どうした?」
「宮本ですがね、彼は本当に、�ひかり350号�で新横浜へ帰ってきたのでしょうか」
「家主の証明では不満なのか」
「いえ、それは、それでいいのですが」
「何を見つけたんだ?」
「結果的に意味のないことかもしれませんが、一応メモっておくべきだと思います」
と、浦上が口にした発見は、上野駅—鶴見駅間の所要時間だった。浦上は言った。
「もっとかかると思っていましたが、上野から鶴見まで、京浜東北線で、正味三十四分なのですね」
「そんなものだったかな」
谷田も意外な顔をし、
「おい、三十四分しかかからないということは」
と、口元を引き締めた。
「そうです、宮本は犯行に参加できる可能性を残しているってことです」
浦上は時刻表を差し出した。
宮本が�ひかり350号�に乗車していた証明が出てくれば、新発見は一片の価値も持たなくなる。新横浜を素通りしたとしても、東京着が十八時四十八分だから、十八時五分の凶行に間に合うはずがない。
だが、そうした京都からの足取りを一切無視して、単に犯行だけを考えると、宮本は�参加�の有資格者となる。
不忍池から上野駅までの時間、鶴見駅から『松見アパート』までの時間、それに電車に乗るまでの待ち時間を、たっぷり加算しても、(午後六時五分に殺人現場を出発して)午後七時からのニュース放送中に、悠々とアパートへ帰ってくることができる。
「宮本は、二重丸ではないけれど、完全に名前を消すわけにはいかないってことだな」
谷田は時刻表を閉じた。
この微妙な発見は、真理の夫(村松)と愛人(手塚)のアリバイ次第で、あるいは貴重な意味を持ってくるかもしれない。
まだまだ、流動的である。
谷田は、喫茶店を出たところで、浦上と別れて行った。県警本部へ引き返すには、地下鉄の方が便利なのである。
東京へ向かう浦上は、湘南電車へ乗るために、戸塚駅の改札口を通った。
上りは発車したところだった。待ち時間を利用して、ホームの赤電話で『週刊広場』へかけると、
「浦上ちゃん、そういうことなら、ご苦労でも、そのまま仙台へ行って、村松と真理に会ってきてもらおうか」
と、編集長は積極的な姿勢を見せた。
「軍資金が必要だな。よし、だれか若い者に、取材費を届けさせよう。待ち合わせ場所は、上野駅の旅行センターでいいね」
編集長の声が甲高くなっていた。
浦上が、若い編集者から仮払いのキャッシュを受け取り、東北新幹線に乗ったのは、それから一時間四十分の後だった。
上野発十五時ちょうどの、�やまびこ49号�である。