真理は、ともあれ浦上を、玄関先には入れてくれた。
中廊下で、ドアを開けたままの対話では、近所の耳というものがあろう。当然なことに世間体を意識する真理は、浦上がドアを締めるのを待って、口調を改めた。
「せっかくお訪ねくださっても、お目当ての村松は、遅くならなければ帰ってきませんよ。どうせ、夜半まで飲み歩いてくるのに決まっています!」
文字通り、吐き捨てるような、話し方だった。
二、三問いかけて分かったことだが、今日、真理が村松と前後して仙台へ戻ったのは、世間のうわさを強く気にする、実家の両親の命令だったのである。真理の意思ではなかった。
「あたしは、もう二度と仙台へなどきたくはなかったのよ。あの女を殺した犯人がさっさと逮捕されれば、あたしも自由になれるんだわ」
と、真理は浦上の質問にこたえて言った。
真理は赤いセーターに、黒いタイトスカートだった。束ねたロングヘアを右肩に垂らしており、化粧が厚かった。
しかも、半端な厚化粧ではなかった。いやいや仙台へ帰り、独り部屋に閉じこもっているうちに、焦燥が倍加したのだろう。それで、ルージュを濃く引いたりすることで、気分を紛らわしていた、と、そんな感じでもあった。
(なるほど。思っていた通りの女だな)
浦上は自分の中で、自分に向かってつぶやいていた。
真理は、前触れもない浦上の訪問に対して、別段驚いているふうでもなかった。持って生まれた気の強い性格もあるだろうし、昨日横浜の実家で、刑事から事情を聞かれているためもあろう。
あるいは、横浜の手塚から、
『週刊誌が、恐らくそっちへ行くだろう』
と、自分が取材された旨の電話が入っていたかもしれない。
(うん、それだな)
と、浦上は思った。『ホテル・サンライズ』のレストランに、実際に仕掛けがあるなら、手塚からは、必ず連絡がきているはずだ。
真理は、改めて電話で手塚と話し合い、警察の捜査とか、報道陣の取材に向けて、新しい対処を用意したのだろうか。『ホテル・サンライズ』が偽アリバイ工作なら、二人は口裏を合わせなければならない。
しかし、玄関先での立ち話は、
「ええ、確かに、手塚さんと、二人でディナーを食べましたわ」
というもので、新しいデータを付加してはこなかった。真理は、突っ込まれもしないことについて、余計なことばは口にしないタイプなのかもしれなかった。
そしていまの浦上は、新しい視点で追及するものを、持っているわけではなかった。
「一昨夜、篠原町のお家《うち》へ帰られたのは、相当遅かったようですね」
浦上は、その辺りから探りを入れてみようとした。
「ホテルのレストランを出てからも、ずっと手塚さんとご一緒でしたか」
「あのあと、横浜駅まで、ベンツで送ってもらって別れました」
と、真理はこたえた。
横浜港に面した『ホテル・サンライズ』は、駐車場が狭い。手塚は中華街東門近くの駐車場に、ベンツを置いていた。
ホテルから駐車場までは、徒歩六、七分だ。真理と手塚は、食後、明治屋ストアの前をぶらぶらと歩いて、東門近くの駐車場へ戻ったという。
「なぜ、お宅まで送ってもらわなかったのですか」
「そんなことまで、週刊誌に言わなければいけませんの? どこで降りようと、あたしの勝手でしょ。おとといは、手塚さんとフランス料理を食べることだけが、目的だったのですから」
「手塚さんとは、どこで待ち合わされたのですか」
これは、ひとつのポイントだった。
「関内のセンタービルの前で、ベンツを運転してきた彼に、拾ってもらったのよ」
真理は、彼、というところに力を込めた。今更、取材記者に対して(殺人事件周辺の人間関係を)隠し立てしても始まらない、と、開き直っているようだった。
センタービル前での約束は午後六時だったが、手塚のベンツは、約束の時間より少し遅れてやってきたという。
遅刻といっても、十分前後のことだ。ベンツを運転していたのが、事実、手塚に間違いなかったら、二人は、不忍池の容疑から一歩遠のくことになる。
「奥さんも、手塚さんとご一緒に中華街東門近くの駐車場まで行き、駐車場から歩いて、『ホテル・サンライズ』へ向かわれたわけですね」
「ええ、そうですわ。往復とも、同じコースを歩きました」
「途中、だれか、お知り合いの方に会いませんでしたか」
「いいえ、だれとも」
真理は、厚化粧の口元に笑みを浮かべた。まだ何か質問があるか、という顔だった。
「もうひとつ、大事なことを伺わせてください」
浦上は、声を低くした。
「奥さんはいまでも、宮本淑子さんを刺殺したのが、奥さんのご主人であるとお思いですか」
「村松には、確かな動機があります。村松は、夫婦四人の話し合いの場に、あの女を出すわけにはいかなかったのです」
夫を犯人と指摘する口調には、激しいいらだちがこもっている。
これが演技なら、相当なものだ。
「このことは、すべて刑事さんに話しました。詳しいことは警察でお聞きになってください」
「村松さんの目的は、奥さんの実家の財産ですか。しかし、村松さんと宮本淑子さんの交際は、お二人とも結婚前からのものでしょう。奥さんの前でこういう言い方は何ですが、村松さんと淑子さんは、想像以上に強い絆《きずな》で結ばれていたのではないでしょうか」
「だからこそ、村松はあたしとの結婚を継続するためには、その強い絆を断ち切る必要があったのではありませんか?」
「しかし」
「村松はそういう男なのよ。三年間一緒に暮らしたあたしが、だれよりもよく知っています。上辺《うわべ》は物静かだけど、人妻となった女性といつまでもつづいていたことでも分かる通り、村松は自分勝手で計算高い人間です」
真理の方から無理に離婚を迫れば、それ相応なものを要求してくる。村松は、そうした性格だというのである。
いずれにしても、それぞれに愛人を持つ夫婦が、ぎりぎりの崖《がけ》っ縁《ぷち》に立たされていたのは、事実だ。
「ところで奥さんは、殺された淑子さんのご主人に、よく電話されたそうですね」
「それほど頻繁にかけたわけではありません。でも、あんな女とはさっさと別れてしまった方がいい、ということは、何度かご忠告申し上げました」
淑子は村松と一緒になりたがっている。これは事実なのだから、たっぷり慰謝料でも取って離婚した方がいい、と、電話で繰り返したというのである。
「あの鳥取出身の若いご主人は、もうひとつ決断力がないのよね」
真理の語調には、あからさまな非難があった。
宮本が早いところ淑子を離縁していれば、淑子はより強く村松にアタックしただろう。と、なれば、必然的に、真理と村松の夫婦生活も終えんを迎える。
無論、そうしたもくろみに立っての、離婚の督促である。
「今回、宮本さんの出張先へ電話を入れたのも、同じ趣旨ですか」
「今度こそ、最後の話し合いにしたかったのよね。きちっとけりを付けて、今日辺りは家裁で、二組の離婚問題が表面化していたはずなのに、同じ�離婚�でも、嫌な結末になってしまったわ」
「宮本さんの出張先へまで電話をかけて、離婚の念押しですか」
「あのご主人、人がいいというのか、何とも頼りないので、こっちが、かっかしてくるわ」
「聞いたところによれば、一昨日は、宮本さんが横浜へ帰る途中の、駅へまで、呼び出し電話を入れたそうですね」
「ああ、船岡という駅のことね」
「そうまでなさるとは、奥さんは、何が何でも、昨日に予定された談合に、すべてを賭けていたわけですね」
「だって、あのご主人、土曜日までの出張だったのに、日曜日はともかく、月曜日、会社を休んで寄り道してくるような人でしょう」
「気が変わって、話し合いをすっぽかされたら困ると心配したわけですか」
「でも、こんな結果になるのでしたら、そうまですることもなかったわ」
真理は肩に垂らした長い髪に手をやった。
「村松はいつ逮捕されるのですか」
完全に、夫を犯人視する、感情的な話し方を真理はつづけた。
「警察では、もちろん内偵してるんでしょ。記者さんはどう思いますか。酒好きの村松は、自分のアリバイについて、出張先の横浜で、一人飲み歩いていたとでも言い張るつもりでしょう」
だが、横浜市内のどこの酒場を探ろうと、裏付けなど取れるわけはない。
「真犯人に、アリバイがあるはずはありませんものね」
真理は、そんな言い方までした。
絶壁に立たされているどころか、すでに、断崖から足を滑らせている夫婦であった。