谷田の住居は、東横線と横浜線が交差する菊名駅近くの、住宅団地だ。子供のいない谷田は、団地三階の3DKで、妻と二人の生活をつづけている。
この夜谷田は、支局へ上がらなかった。記者クラブを出ると、関内から根岸線(京浜東北線)で帰途についた。
東神奈川で横浜線に乗り換えようとして、気が変わった。鶴見は、そのまま京浜東北線に揺られて行けば、東神奈川から二つ目の駅なのである。
(刺殺された淑子と、宮本。夫婦が住んでいたアパートを、この目で見ておくのも、意味のないことではあるまい)
谷田は仙台へ向かった浦上のことを、考えた。真っ直ぐ帰宅して一杯、という気にはなれなくなってきた。
鶴見駅から徒歩十分足らず。『松見アパート』は、佃野町《つくのちよう》商店街の裏側だった。
路地の奥に、似たようなモルタル塗り二階建てのアパートが何軒かあった。『松見アパート』は、比較的新しい感じだった。
家主夫婦の部屋は、一階の取っ付きである。六十過ぎと覚しき夫婦だった。
子供たちは独立して別居しているのか、アパート一階の2DKに住んでいる家主は、二人暮らしだった。
「お通夜といっても、宮本さんの奥さんの実家は、瀬谷の先でしょ。鶴見からは遠いので、失礼して、昼間のうちにお焼香させてもらいました」
と、小柄な家主は女房と顔を見合わせて言った。谷田も昼過ぎに焼香してきたことを告げ、さっき戸塚の喫茶店から電話を入れた浦上は親友であると伝えると、
「そうですか、それはどうも」
家主はある種の親しさを見せて、部屋に上げてくれた。
家主夫婦は、夕食を終えたところだった。二人してテレビの時代劇ドラマを見ていたのだが、テレビを消して、お茶を出してくれた。
「どうして、あの奥さんが、こんなことになったのでしょう」
と、不審と興味をあらわにする家主は、淑子に村松という愛人がいたことを知らなかった。淑子を取り巻く複雑な人間関係は、一切公表されていない。
宵闇の上野公園不忍池で、淑子が、
『ね、冗談よね。本気で、そんなこと言ってるわけではないのでしょ』
『いつまで、くだらない夢を見ているんだ!』
と、男性と会話を交わしていたことは、通りかかった学生の証言で分かっている。その点だけは、記者会見で発表されている。
その上、夫の宮本が鳥取へ出張中だったと知れて、一部の新聞は「人妻の情事?」と書き立てたが、捜査本部は、背景の肝心な点にはほとんど触れていない。
捜査一課淡路警部のオフレコという形で、淑子�周辺の動機�をキャッチした谷田だけが例外なのである。
谷田は、無論その辺りは適当にそらして雑談し、雑談の中で、宮本夫婦の日常を聞き出したが、特別な発見はなかった。
『松見アパート』が新築されたのは、二年前の秋だった。完成を待って入居してきたのが、結婚式を挙げたばかりの、宮本と淑子である。
「うちのアパートには、ほかにも新婚さんが入っています。宮本さんとこも、ほかのご夫婦と変わった様子は見えませんでしたよ」
べたべたするほど仲がよかったというのではないが、言い争いなどをするわけでもない。
「鳥取出身の旦那さんは口数が少なくて、見るからに純朴で、まじめな人です。それに比べて奥さんの方は、お化粧とか服装が派手好みでしたね」
しかし、あの奥さんが旦那以外に男性と情事だなんて、信じられない、と、家主夫婦は口をそろえて言った。
故人をかばって、うそをついている感じではなかった。家主夫婦の目には、実際に、ごく一般的な若妻と映っていたのだろう。
「それでは、男性がアパートへ訪ねてきた、なんてことはなかったわけですね」
「そうしたことは一度もありません」
家主は即座に否定した。否定してから、
「あ、そういえば」
と、言い足した。
「男性がきたことはありませんが、旦那さんの方に、女の人から何度か連絡がありましたよ」
「女性? どんな人ですか」
「顔は知りません。ここんとこつづいて四回ほどだったかな、いずれも電話でした」
「電話なら、宮本さんの部屋にも引いてあるでしょ。何で、大家さんのところへかけてきたのですか」
「ご夫婦とも、まだ帰ってきていなかったので、それで伝言を頼まれたのですよ」
伝言は、いずれも至急電話を欲しいという内容だった。そして、家主は、その女性の名前を覚えていた。
「何の愛想もなく、ぱりぱり用件だけを言う女の人でしてね。ええ、村松さんという方です」
「なるほど」
谷田はうなずいた。
真理という女の執拗さが、目に見えるようである。恐らくは、宮本の勤務先『日東カー用品』横浜支店、あるいは宮本の出先へまで電話で追いかけ、それでもつかまらなくて、アパートの家主に伝言を頼んだ、ということだろう。
「ところで、これは先刻、浦上君が電話でお尋ねしたことですが」
谷田は質問を、一昨日の夜に絞った。
やはり新しい発見はなかった。すべて、宮本が言った通りであり、家主の返事も、さっき浦上の電話にこたえたことと変わる点は、なかった。
「おとつい、鳥取みやげに頂戴した二十世紀梨がこれです」
と、家主は、食卓の右手を指差した。みやげ物用に、梨をパックした手提げかごが、食卓の下に置かれてあった。かごの中には、まだ大きい梨が二個残っている。
「ほう、見事な二十世紀ですね」
谷田はそろそろ立ち上がろうとして、何気なく、梨のかごに手を伸ばした。無為に終わりそうだった訪問を救ったのが、このパック用の手提げかごにほかならなかった。
かごの中に、思いもかけない発見があった。
「ん?」
谷田が不審のつぶやきを漏らしたのは、かごの底へ目を向けたときだった。最後に残った二個の梨の下側からのぞいているのは、小さい短冊だった。
「お願い」と見出しの付いた印刷物だった。谷田が、思わずかごの中へ手を突っ込んで、短冊を取り出していたのは、「福島」という活字が目に入ってきたためである。「お買い上げ誠にありがとうございました。福島特産の二十世紀梨です。万一変質等ありましたときにはご一報ください。早速お取り替えさせていただきます」といった内容であり、欄外に、次のように印刷されている。
福島市飯坂町中ノ内 吉井果樹園
「福島?」
谷田は短冊を手にして、もう一度小声でつぶやいてから、家主夫婦に尋ねた。
「これが、この梨が、宮本さんの鳥取みやげですか」
「梨がどうかしましたか」
「最近おたくでは、同じような梨のおみやげを、宮本さん以外からも、もらっているのと違いますか」
「記者さん、妙なことをおっしゃいますね。みやげに頂戴した梨は、これだけです。ほかにはありません」
「すみませんが、これ、お借りしてもいいですか」
谷田は、かごの底から取り出した短冊を、家主に示した。
家主はそれがどうしたという顔をし、
「お借りしたいって、そんなもの、差し上げますよ」
と、言った。
谷田は短冊を、背広の胸ポケットにしまった。鳥取みやげが、なぜ福島産なのか。鳥取と福島では、逆方向ではないか。
谷田は、鳥取の二十世紀梨は承知しているけれども、福島産には詳しくなかった。
「この梨のかごをもらったとき、包装紙はついていませんでしたか」
「いいえ。むき出しでしたよ」
と、これは女房の方がこたえ、
「現地で販売しているみやげだから、デパートなんかと違って、包装はしていないのではないですか」
と、家主が言い添えた。
しかし、みやげ物用にパックされ、こうした「お願い」の印刷物まで入れておきながら、むき出しということがあるだろうか。
包装紙が付いていれば、当然「福島」産と明示されてあるはずだ。家主夫婦も、不審に見舞われただろう。
包装紙は、宮本が意図的にはがした、ということはないのか。と、したら、その真意は何か。