鶴見駅へ引き返す歩調は速いのだが、どこか、重い感じも与えた。その足元に、整理のつかない混迷が反映されている。
駅の手前に、大きい生《き》そば屋があった。ドアの内側に赤電話があるのを見て、谷田は生そば屋に入って行った。
午後九時に近いが、下町のそば屋は込んでいた。近所のアパートに住む、勤め帰りの独身者の姿が多いようである。
谷田もまだ夕食前だ。谷田は、食事の支度をして待っている妻を思い浮かべながら、
「これも仕事のうちだ」
ぶつぶつつぶやき、入口に近いテーブルに腰を下ろした。
天ざるに熱燗《あつかん》を注文してから、赤電話に向かった。
福島の一〇四番に問い合わせると、飯坂《いいざか》の『吉井果樹園』はすぐに分かった。
谷田はコインを用意して、かけ直した。今度は、先方が出るまでに、間があった。果樹園は朝が早いので、夜も早いのかもしれない。
(明朝にするか)
谷田が短冊に目を落としてそう考えたとき、ようやく相手が出た。
電話に出てきた男の声は、思った通り、眠そうだった。眠そうではあるが、東北の人間は不親切ではなかった。
谷田が夜分電話したことをわびてから、質問に移ると、
「そんなことはありませんよ」
果樹園側は、谷田の疑問を否定した。
「鳥取へ梨を出荷するなんて、そんなことはありません。ご承知だと思いますが、鳥取は有名な梨の生産地ですよ」
質問の意味が、よく分からないという感じだった。確かに谷田の質問は、いきさつを何も説明しないので、手前勝手もいいところだった。
谷田は、それを百も承知でつづけた。
「実は、そちらの果樹園で売り出されているパックのかご詰めについて、お伺いしたいのですが」
と、「お願い」の短冊を口にし、包装紙の有無について質した。
果たして、包装紙が使用されていないということはなかった。形式的だが、ラベルのような小さいものが、上部に被《かぶ》せてあるという。
「もちろん、それには、福島の吉井果樹園と印刷されてあるわけですね」
「はい、色刷りで、福島特産と明記してあります」
問題のパックは七個詰めで千円。駅売りとして納品されたものだった。
「駅売りというと、福島駅ですか」
「福島のほかに郡山《こおりやま》駅で販売しております」
「このかご詰めは、いずれにしても、福島県へ行かなければ手に入らないわけですね」
「お客さんは、どちらの方ですか」
「ぼくは横浜ですが」
「ああ、それでしたら、東京の、上野駅でも売っていますよ」
「上野?」
谷田の顔色が変わった。
谷田はもう一度、遅く電話したことをわびて、受話器を置いた。
テーブルに戻ると、天ざると熱燗が載っていた。
(上野か)
谷田は一口酒を飲んでから、「お願い」の短冊に目を向けた。宮本が、みやげの二十世紀梨を、上野駅で買ったとしたら、問題だ。
宮本は、さっき谷田と浦上に説明した�ひかり350号�には乗っていなかったことになる。宮本が、�ひかり350号�より早い列車で東京へ到着していたらどうなるのか。午後六時五分の殺人を起点として、宮本は余裕を持って、午後七時過ぎに『松見アパート』へ帰ってくることができるのだ。この足取りは、浦上がさっき、きちんと計算している。
宮本は犯行後、上野駅構内でかご詰めの梨を買い、形式的に被《かぶ》せてあったという「福島特産」の包装紙をはぎ取り、鳥取みやげと偽《いつわ》って、『松見アパート』の大家へ届けたのだろうか。
みやげが、鳥取産ではなく、福島産である以上、そういうことになろう。
しかし、上部の小さい包装紙は捨てたものの、かごの底に挟まれた「お願い」の短冊までは、気付きようもなかった、と、いうことか。
(これは、えらいことになったぞ)
谷田はぐいっと、日本酒を飲んだ。思いもかけなかった新発見と、発見のもたらした情報が、微妙な緊張を運んでくる。
鳥取産でもない二十世紀梨を、鳥取みやげと称して、宮本が届けた意味は何か。
鳥取出張後立ち寄ったという、京都府下に住んでいる友人宅から、横浜へ直行したことを強調するためであり、
(不忍池へなど、寄り道していなかった)
と、それを暗黙のうちに主張したかったために決まっている。
(宮本も、二重丸か)
そう、梨パックの操作は、逆な見方をすれば、宮本こそが真犯人《ほんぼし》である、と、示しているのかもしれない。
宮本が京都経由で帰ってきた時間的な問題は、これから再検討するとしても、福島の梨を鳥取産と装ってみやげとした事実、これだけは動かない。
この事実は、仮説を立てる上で、相当な比重を占めてこよう。
が、だからといって、もちろん、他の二人の影が、払拭されるわけではない。他の二人もまた、そのまま、クロい影を引きずっている。
しかし、実際に、淑子の左胸に刃を突き立てたのは、三人の長身の男の中の一人だけである。
実行犯は、一人だ。
三人の中の二人は、殺人《ころし》と直接的なかかわりを持たない。シロなのである。
それなのに、なぜ、三人がそろいもそろって、こうした、あいまいな状況に置かれているのか。
クロい人間がシロの中に隠れている犯罪は多いけれども、今回のような逆の例は珍しい。今度の取材は、犯人捜しでなく、いってみれば、凶行と無関係なのはだれか、という追及である。
(おかしな事件《やま》もあったものだ)
谷田は酒を飲み干し、口元をとがらせた。
三人の目撃者によって、犯人が一人と限定されているからいいようなものの、これが、たとえば室内の殺人で、複数犯の可能性があったとしたら、三人が三人とも捜査本部へ連行、という事態を招いていたかもしれない。
(どいつが真犯人《ほんぼし》なんだ)
谷田を覆う焦燥は、仙台で浦上が感じているのと、全く同質なものだった。谷田は天ざるを食べ残して、生そば屋を出た。