昨日と同じJR戸塚駅東口の喫茶店に寄った。
浦上はコーヒーを注文すると、キャスターに火をつけて、ずばりと言った。
「心証はクロですね」
「オレもそう感じた」
谷田も、ピース・ライトに火をつけた。
「駅員の証言は、あの通りだと思います」
浦上は地方の小さい駅の、若い駅員の素朴な口調にうそはないと思った。
宮本は間違いなく、(宮本自身が強調するように)十四時三十二分に、船岡駅から上り普通列車に乗り込んだのだ。決して、それ以前に船岡を離れてはいない。
しかし、船岡を出発してから、不忍池の犯行時刻までには、ざっと、三時間半の持ち時間がある。
この持ち時間を、活用する手段はないのか。いや、必ずその三時間半にトリックが仕掛けられている。
浦上と谷田の意見が一致したのは、手塚久之と、村松俊昭のアリバイが崩れようもないという、消去法のためだけではなかった。
「宮本はあんな物腰をしているけれど、意外な食わせ者かもしれませんよ」
「見ているところは、一緒だな」
谷田はうなずきながら、たばこを吹かした。浦上の指摘は、宮本が、一見、面倒くさそうな素振りを示しながらも、ポイントは、繰り返しきちんとこたえていたことであり、谷田もまた、
「うん、勿体《もつたい》ぶってはいたが、実際には自己主張をしたくて、うずうずしていた顔だ」
と、ベテラン事件記者のキャリアで見抜いていたのだった。
「この分では、出発点の船岡は駄目だな。成瀬って旧友に電話しても、返ってくるこたえは知れているのじゃないか」
「しかし先輩、出発点は船岡なのだから、一応、成瀬なる友人に当たってから、三時間半の足取りを追うのが順序ではありませんか」
コーヒーがきた。
浦上はコーヒーを飲み、たばこを吸い終えると、テレホンカードを用意して立ち上がった。
カード電話は駅まで行かなければ、なかった。
浦上は構内の人込みの中で、グリーン電話を取った。
亀岡の煉瓦会社は、最初女子社員が出たが、すぐに、当の成瀬に代わった。
「は? 週刊誌の方ですか」
成瀬は、浦上の目的を知ると、驚いたような声を出した。船岡の若い駅員と同じように素朴な印象であり、宮本に共通する、ゆったりした話し方だった。
あの後で、宮本から電話が入っているかと思ったが、それはなかった。
「宮本の奥さんも、えらいことになったものです」
成瀬は、そのことで自分まで取材されるなんて、予想もしなかったと繰り返した。本当に意外という口調である。
成瀬も鳥取の出身だった。高校時代の三年間を宮本と一緒に過ごしたが、成瀬は親類の手づるで現在の煉瓦会社に就職し、その後、入り婿の形で結婚し、園部町に落着いた、という経緯のようだった。
宮本とは、社会人となってからも、ずっと交際をつづけてきたし、お互いの結婚式にも出席しているという。
「宮本の奥さんは、どこか派手だとは思いましたけど、OL時代からの愛人がいたなんて、ひどい話ではありませんか」
成瀬は当然なことに、旧友の肩を持っている。
成瀬が、初めて淑子の素行を打ち明けられたのは、四日前に宮本が一泊したときだった。
「宮本さんは、前ぶれもなく、やってきたのですか」
「日曜日の朝、鳥取の家から電話がありまして、これから横浜へ帰るのだが、寄ってもいいか、と言ってきました」
「最初から、お宅へ一泊するつもりで電話をかけてきたのですか」
「そうではありません。久し振りで会っているうちに話がはずみ、うちの女房が強く勧めたこともあって、泊まることになったのです」
そして、翌三日の月曜日宮本は年休を取ることにして、旧友同士は、一夜語り合ったという。
その限りにおいては、宮本の一泊は計画的ではない。しかし分からない。結果的に、成瀬夫婦が宿泊を勧めざるを得ないよう、宮本の方からそれとなく働きかけたのかもしれないのである。
「結婚して二年なのに、夫婦関係がうまくいかなくて、宮本は落ち込んでいましたね。昔は、あんな男ではなかったのに、ぼくの家で酒を飲みながら、愚痴《ぐち》をこぼしてばかりいました」
と、成瀬がつづけたところで、テレホンカードがなくなってきた。
浦上は、
「すみませんが」
と、いったん電話を切ってもらい、すぐにかけ直した。
「お仕事中申しわけありませんが、もう少し話を伺わせてください」
浦上は事件当日、すなわち、宮本が一泊した翌日へ、質問を進めた。
「はあ、宮本がくさくさしていたので、つきあってやればよかったのですが、ぼくの方はどうしても、会社を休むわけにはいきませんでした」
「すると、成瀬さんは普通に出勤し、宮本さんだけが家に残ったのですか」
「いえ、ぼくがいなくて、家の中でぼくの女房と顔突き合わせているのでは、宮本も気詰まりでしょう。朝、ぼくが出勤するとき、宮本も一緒に家を出ました」
「しかし、宮本さんが横浜へ帰るために乗った列車は、午後でしょう。船岡発十四時三十二分と聞いていますが」
「ええそうですよ。宮本はこのまま横浜へ帰っても仕様がないと言いましてね、気晴らしに、近所の山を歩いていたのです」
「山?」
「山といっても、それほど大げさなことではありません。宮本は高校生の頃から、沢歩きが好きでしてね。あの日も、人気のない川の畔《ほとり》でも歩いて、今後の生活の立て直しを考える、と話していました」
「近くに、格好な川があるのですか」
「ええ、大堰《おおい》川と、園部川、二本の川が流れています」
成瀬は、毎朝七時四十分に家を出るという。亀岡への通勤には軽乗用車を用いており、船岡駅近くの大堰川まで、宮本を同乗させたという話だった。
「宮本は時刻表を調べて、夜遅くならないうちに横浜へ帰ればいいということで、あの上りを決めたのですよ。ええ、もしも会社などから電話があったら、あの上り列車に乗り、京都経由で間違いなく今日中には横浜へ帰ると伝えてくれと、女房に頼んでいました」
それで、成瀬の妻は、真理から電話が入ったとき、その通りにこたえたのだろう。
「そうです。女の人から電話があったことは女房から聞きました。今度の事件が起こってから、宮本に電話して知ったのですが、あの女の人は、宮本の奥さんと関係があった村松という男の夫人なんですってね」
あの女の人も、相当な発展家だそうですね、と、これは半ば独り言のように、成瀬はつづけた。もちろん、宮本に吹き込まれたことだろう。
「大堰川で、宮本さんと別れたのは何時頃ですか」
「家から車で五分ですから、七時四十五分頃になりますか」
「それから、十四時三十二分の上り列車に乗るまで、宮本さんは一人で沢歩きというか、川の畔を歩いていたのですかね」
「あいつは、そういう男なのですよ。本当なら、横浜みたいな都会で暮らす人間ではありません」
成瀬の妻は、その宮本のために、昼食のにぎりめしを用意してやったという。
「宮本は、しかし二時前には、もう川から戻っていたようですよ。うちの女房にお礼の電話をかけてきたのが、二時少し前だったそうです」
宮本は、上流では紅葉が見えたと言い、会社からの電話があったかどうかを尋ねたという。しかし、このときはまだ、真理からの問い合わせは入っていなかったわけである。
『いろいろお世話になりました。では、ぼくは今朝の予定通りに横浜へ帰ります。成瀬によろしくお伝えください』
宮本はそう言って電話を切ったが、
「うちの女房の話によると、朝方より元気な感じだったそうです。やはり、川を歩いたのがよかったのでしょう。しかし、その後に、あのような事件が待っていたなんて、宮本も、つくづく不幸な結婚をしたものです」
高校時代からの親友は、最初から最後まで、宮本を心配する話し方だった。