それは在来線にして、仙台より七つ上野寄りの駅だった。
浦上と谷田は、何度も礼を言って出札口を離れると、何はともあれ、時刻表を開いた。浦上の指先が、どうしようもなく震えていたのは当然だろう。
「先輩!」
その浦上の、口元までが、細かく震えてきた。
あった!
東北本線の船岡駅にも、山陰本線の船岡駅と同じように、十四時三十二分発の、上りの普通があるではないか!
しかし、あることはあったが、そっちは、京都行きの上りとは意味が違う。東北本線の十四時三十二分発は、わずか四分しか離れていない隣駅、大河原《おおがわら》止まりだったのである。
宮本はなぜ、一駅、普通列車に乗ったのか?
何かが見えてきた。
「たった一駅でもいい。宮本は何が何でも、この列車に乗らなければならなかったのだな」
「そうです。これこそが、やつが不在を主張する砦《とりで》にほかならないでしょう」
時刻表を持つ浦上の手に、力がこもってきた。
同じ「駅名」で、同じ「上り普通」で、同じ「発車時刻」。宮本はそれを発見したとき、偽装アリバイが成功することを悟ったのに違いない。
「うん、きみと電話で話した駅員が、列車の行き先を何気なく口にすれば崩れてしまう、綱渡りのようなアリバイ工作だが、現実には、こういうのが盲点になるんだな」
「さっきの先輩のことばではありませんが、われわれ取材記者が山陰本線の普通列車に乗るとは、宮本も想像しなかったでしょう」
「ぎりぎりなところへ仕掛けたトリックでも、手前のガードが固ければ、捜査の手も、すぐにそこまでは伸びない。盲点だよ。盲点は恐い」
と、谷田が繰り返したのは、もう一つの�ふなおか�駅を、いったんはあきらめかけた、照れ隠しの要素もあっただろう。
しかし、こうなると、福島産の鳥取みやげが新しい光芒を放ってくる。『松見アパート』で、あの二十世紀梨を見つけ出してきたのは、谷田だ。
「吉井果樹園の短冊が、物証として、間違いなく、生きてきましたね」
浦上は、照れ隠しが感じられる先輩への配慮を、言外ににじませた。
「宮本は一駅だけ、十四時三十二分発に乗って、次の大河原で後続の上り列車に乗り継いだのでしょうが、在来線から東北新幹線に乗り換えるとすれば、福島ということになります」
「福島か」
「これまた、ぴったりではありませんか。あのパックは上野駅構内でも売っているとはいえ、このルートを採ったに違いない宮本なら、福島駅での乗り換え時に買う方が自然だと思います」
「そうだな。アリバイ工作を完了した余裕に浸《ひた》りながら、宮本は、上野までの新幹線車中で、吉井果樹園の包装紙を剥ぎ取り、福島産の梨を、鳥取みやげに変身させたか」
「最後の追い込みですね」
浦上は、山陰本線の時刻表へ書き込んだように、東北本線の方にも、駅名の「船岡」と、発車時刻の「十四時三十二分」に、アンダーラインを引いた。
「知らなかったよ。鉄道ダイヤには、こうした偶然もあるんだな」
と、谷田がもう一度繰り返すと、
「こっちの船岡の方が、上野に近いことは間違いありません」
と、浦上は言った。
「これなら、十四時三十二分に出発して、楽に、不忍池の犯行に間に合わせることができるのではないでしょうか」
「それにしても、思いもよらないアリバイ工作だな」
谷田はなおも茫然と、アンダーラインが引かれた駅名と発車時刻を見ていた。
浦上にしても同じだった。京都駅構内の騒音が、一瞬、自分から遠のいていくのを、浦上は感じた。
だが、もう一つの船岡駅を発見したからといって、それで、すなわち全面解決というわけではないのである。
宮本の足取りの裏付けを初め、確認を必要とする問題は、まだ、いくつも残っている。
「おい、宮本のトリックが�東北�であることは分かった。しかし、�山陰�から�東北�へ、本当に移動することができるのかい。いわば、両極端だぞ」
「出発時間が違います」
浦上は、本能的に確信を持った。自信は、
(犯人《ほし》は宮本以外にいない)
という、これまでの取材結果に支えられている。
宮本が、成瀬の軽乗用車で、船岡駅近くまで送ってもらったのは、朝の八時前だ。�山陰�出発が午後であることが、ネックとなってきたわけだが、朝の列車で�山陰�を離れていれば、行き先が、東京より先の東北であろうとも、仮説の立て方が変わってくる。
�山陰�から�東北�への移動は、それほど難しい問題ではない。
「外堀から埋めましょう」
と、浦上は言った。
「分かった。とりあえず、昼食《ひる》とするか」
谷田が時刻表から顔を上げたのは、しばらくの沈黙を経てからだった。
今朝は二人とも早起きだった。しかし、口にしたのは一杯のコーヒーとトーストだけだ。霧の中から船岡駅が姿を現わしたために、忘れていた空腹感が、浦上にもよみがえってきた。
浦上と谷田は、コンコースの人込みを縫うようにして、エスカレーターで、京都観光デパートの二階へ上がった。
二階も込んでいた。みやげ物店などが、びっしりと並ぶ狭い通路を歩き、一番奥にあるレストランに寄った。
昼食時とあって、レストランは旅行客で満席だった。しかし、少し待って、窓際の席を取ることができた。
二人ともヒレカツ定食を頼み、
「壁は、ともかく一つは越えたんだ。軽く乾杯といこうか」
ということで、ビールをつけた。
ビールはうまかった。問題がいくつも残っているとはいえ、お互い、難関突破の充実感を覚えているためだろう。
「上田という若い駅員の確認から、始めますか」
浦上は、のどを鳴らすようにして、ビールをあけた。
「電話を入れるなら、成瀬の女房が先かもしれない」
と、谷田は言った。
谷田は、問題が一歩前進したことで、今度は成瀬の家にかかってきたという真理の電話に、こだわりを見せていた。
夫の成瀬は、昨日、浦上の問いかけに対して、
『女の人から電話があったことは女房から聞きました。今度の事件が起こってから、宮本に電話して知ったのですが、あの女の人は、宮本の奥さんと関係があった村松という男の夫人なんですってね』
と、こたえている。
「真理の立場が、どうも釈然としなくなってきた。これは、ひょっとすると、とんでもないことになるかもしれないぞ」
谷田はビール瓶に手を伸ばし、二つのコップに新しいビールを注いだ。浦上も、真理の電話に関して、筋が一本通らないものを、感じ始めていた。
それは、明らかに、もう一つの船岡駅が確認されたことで、付随的に浮かんできた不審だった。
「先輩、真理の電話に関しては、だれかが、うそをついているということでしょう」
「うん、確かに、宮本には共犯がいる」
うそをついている人間が、陰の共犯ということになる。
「やはり、一番先に電話しなければならないのは、成瀬の女房だ」
「成瀬、というよりも、成瀬の女房の方が一枚かんでいるのでしょうか」
「昨日宮本は、きみが成瀬の電話番号を訊いたら、自宅ではなく勤務先の方を教えたな。早く連絡を付けたいのなら、とか何とか理由付けていたが、普通は、勤務先ではなくて、自宅の電話番号を告げるものではないかね」
「ぼくが、成瀬の女房と直接ことばを交わすことを、恐れたのでしょうか」
「そう、十分それが考えられる。成瀬の女房は、真理から問い合わせの電話が入ったとき、電話も設置されていない無人駅の、電話番号など口にできるはずがない」
「山陰本線を装って、東北本線の方の、電話番号を告げたことになりますか」
「駅員は、昨日きみがかけた電話にしてもそうだが、JR船岡駅です、とはこたえても、こちらはJR東北本線船岡駅です、と、いちいち言いはしないだろう」
「電話をかけた真理にすれば、それを山陰本線の船岡駅と錯覚するのも当然、というわけですか」
「無条件に錯覚したのは、きみだって同じじゃないか。何せ、出発時間が、どんぴしゃりの十四時三十二分だからな」
「こんなアリバイ工作は、初めてですね」
と、言いかけて、浦上は手にしたコップを思わずテーブルに戻していた。
「先輩、うそをついているのは、成瀬の女房ではありませんよ」
「何を見つけたんだ?」
「このアリバイは、二つの同名駅の、同一発車時刻に支えられているわけですが、それを証明しているのは、真理の呼び出し電話ではないですか」
真理が船岡駅へ呼び出し電話をかけてこなければ、宮本が「船岡駅から十四時三十二分発の上り普通列車に乗って行った」ことの証明は得られない。
浦上の脳裏をかすめたのが、その一事だった。
成瀬の女房が共犯者だとしたら、それは、真理からの問い合わせの電話が入った時点で、初めて成立する性質《たち》のものである。真理からの電話がなければ駄目だ。いや、実際に、問い合わせの来ることが予想される事態だったとしても、真理が、船岡駅の電話番号を聞き出すとは限らない。
成瀬の女房の方から、誘導的に偽の電話番号を教えたとしても、真理が�船岡�駅へかけ直す保証はないのである。
そんな、あいまいな状況を基盤とするのでは、完全犯罪のアリバイ工作とは、言えないだろう。
船岡駅へ、確実に、真理に電話をかけさせるには、どうすればいいか。真理を共犯者にすれば、話は簡単だ。
「なるほど。これは確かに、思いもかけない結果を迎えるかもしれないぞ。すぐに、成瀬の女房に電話を入れて、ウラを取るか」
「もちろん、電話はかけてみます。でも、確認を取るまでもないでしょう」
浦上の分析は、自然に、そこへ到達していた。
浦上をそこへ誘導したのは、成瀬宅(京都府下)と、船岡駅(宮城県下)の市外局番の相違だった。
「調べてきます」
浦上は気軽く立って行った。
赤電話はレストランを出た所の、階段脇にあった。
浦上は、ほんの三、四分で戻ってきた。
一〇四番へ問い合わせて確認した二つの数字は、浦上の推理を裏付けるだけの、違いを見せていた。
「やっぱり、そうでした」
と、浦上は報告した。
「こんな具合です」
浦上は聞いたばかりの市外局番を、谷田の目の前で、取材帳に書き出した。
京都府園部町=〇七七一六
宮城県柴田町=〇二二四
「これじゃ、間違いようもないでしょう。�〇七七一六�とプッシュボタンを押して、成瀬の自宅へ電話した人間が、同じ町にある駅へかけ直すのに、今度は�〇二二四�と、全く異質な市外局番を押しますか」
「分かるよ。人間の�不注意�に期待するようでは、完全工作とは言えない」
「真理は社長秘書をしていた、回転の速い女性です。電話もかけ慣れているでしょう。しかも、現在は宮城県の仙台に住んでいるのですよ」
仙台の市外局番は�〇二二�だった。�〇二二�と�〇二二四�。
「完全な第三者なら、数字の接近していることを、不審に思わないはずはありません」
と、浦上は言った。
「うん、真理は、それが東北本線の船岡駅と承知で、呼び出し電話をかけているな」
「いがみ合っていた宮本と真理が、陰で手を組んでいたという図式になりますね」
浦上の声が微妙な震えを帯びたとき、ヒレカツ定食が届いた。
食事をするどころではなかった。
浦上はコインを用意して、もう一度赤電話に向かった。