週末の東北新幹線は、始発駅から満席だった。
上野発十一時の�やまびこ41号�は、満員の客を乗せて、北へ向かって走った。途中、大宮、宇都宮、郡山、福島と停車して、仙台に到着する盛岡行きである。
昨日までの穏やかな日和がうそのような、曇り空だった。
東京から東北まで、ずっと切れ目なく、空は雲に覆われている。それは、当然なことに、沿線の風景を暗いものに変えた。
「雨にはならんだろうが、気分のよくない天気だな」
「雲が出たのは、五日ぶりじゃないですか」
「犯行日以来の曇天か」
「完全犯罪を追体験するには、宮本が列車を乗り継いだときと同じ状況の方が、具合がいいのかもしれませんよ」
浦上伸介も、谷田実憲も、寝不足な横顔だった。
最後の最後に現出した壁が、昨夜、二人の眠りを浅いものにした。
上野発十一時の新幹線なら、それほど早く起き出す必要はない。それなのに、浦上も谷田も六時前には目覚め、どちらからともなく、電話をかけ合っていたのだった。
『早出して、ハイツ・エコーに村松真理を訪ねてみるか』
という案も出たが、いまは波風立てないことが、最善手だった。真理が陰の共犯者、というよりも、一方の主犯であることは、もはや動かない。
余分な警戒を与えてはいけない。
想定される宮本の殺人ルートを、その通りにたどる計画は、昨日、横浜へ帰る東海道新幹線の車中で、決めた。
仙台発十三時十九分の、上り普通列車に乗り込むことが、東北からの出発点となる。それを逆算しての、�やまびこ41号�への乗車だった。�やまびこ41号�の仙台着は十三時三分だから、無駄な待ち時間なしに、実験に着手できる。
浦上は当然として、谷田の二日つづけての出張は、無理を押してのものだった。県警本部記者クラブの、キャップという仕事は多忙だ。
キャップ自身が、遠出をすることは珍しい。昨日の京都取材にしても、日帰りを条件に支局長の許可を得たものだった。
しかし、ここまできたら乗りかかった船である。何としても福島駅で、宮本を先行の�やまびこ16号�に乗せなければならない。
乗り換え時間一分の、トリックを見破りたい。
谷田のファイトは、浦上を上回っている。その�一分�に、スクープがかかっているのである。
もちろん、昨夜、京都から戻って横浜支局へ上がると同時に、谷田は福島駅へ問い合わせの電話を入れている。
『無茶ですよ。在来線から新幹線へ、一分で乗り換えるなんてことは、絶対にできません』
福島駅のこたえは、谷田に冷淡だった。
『では、何かの事故で、�やまびこ16号�の発車が遅れたということはありませんか』
谷田は粘った。すぐに思い付くのは、そのていどのことだった。発車が八分遅れれば、無理なく乗り込める計算になる。
だが、これも駄目だった。事件当日、十月三日は、在来線も新幹線も、すべてダイヤ通りに運行されており、トラブルは皆無だったというこたえが返ってきた。
何かが見落とされているのだ。こうなったら、何が何でも、現地を踏むしかない。谷田は、再度支局長を説き伏せた。
「宮本は、上野西署へ入っただろうか」
谷田は、車窓を過る雲の下の風景を見ながら、浦上に話しかける。若手記者に命じた予定原稿は、すでに九分通り仕上がっている。
一点残された空欄が、いかにして、上野着十七時四十分の先行車に追い付くか、ということだ。
上野西署の捜査本部が、宮本の逮捕令状を請求する前に、最後の空欄を埋めたい。谷田は、時間との闘いに、全神経を集中している。それが、痛いほどに、浦上にも伝わってくる。
列車は宇都宮を過ぎ、郡山を発車した。十六分で福島だ。
「しかし先輩、宮本が捜査本部へ出頭したとして、今日中に逮捕、ということになるでしょうか」
「浅野機器の分室が発見されて、村松のアリバイが確定すれば、逮捕の可能性は大いにあると思うね」
「宮本がどう言い逃れようと、警察《さつ》は、電話トリックに引っかかったりはしない、ということですか」
「警視庁からの要請で、京都府警と宮城県警が直接動けば、�船岡駅十四時三十二分�の仕掛けは、一発で破られるのと違うか」
「でも、その捜査本部にしても、福島駅で壁にぶつかるわけでしょう」
「一分の乗り換え時間か」
「捜査陣も、とりあえずは、宮本の自供《げろ》を待つしかない。宮本が、最後の砦を簡単に吐きますかね」
「そうだな。女を締め上げるって手もあるが、相手が村松真理ではね」
「真理は宮本より手強いですよ」
と、そうしたことを話し合っているうちに、左前方に、福島の市街地が見えてきた。
浦上と谷田を乗せた�やまびこ41号�は、予定通り十二時三十七分に福島へ到着し、一分停車で福島駅ホームを離れた。
在来線は、車窓左下を走っている。
昨夜電話で、福島駅へ問い合わせたときの、駅員の返事がよみがえったか、谷田は、
(うん、新幹線と在来線の間には、距離があるな)
という顔で、曇り空の下のレールを見ていた。
しばしの沈黙の後で、仙台に着いた。福島から仙台までは二十五分だった。
仙台駅構内の立ち食いそばで簡単に昼食を済ませると、上り普通列車の発車時間が迫っていた。
土曜日の午後だが、在来線の車内は、それほど込んでいなかった。
白地に、太い緑のラインが入った車両である。山陰本線に比べて、東北本線の普通列車の方が新しくて、きれいだった。
浦上は車内を撮影し、それから取材帳を取り出した。
新幹線なら、仙台—福島間は一駅、二十五分の距離なのに、五日前の宮本は、仙台を十三時十九分に出発して、福島に到着したのが十六時十四分。二時間五十五分を要していることになる。�船岡駅十四時三十二分発�を組み入れるために、そういうことになったのだが、
「こりゃ、時間の無駄使いではないですか」
と、浦上は谷田を見た。
仙台駅を発車した普通列車は、すぐに市街地を出て、畑の中をゆっくりと走っている。
「こっちは、二十分の短縮に、目の色変えているのですよ」
「いやあ、単なる浪費じゃない。現にオレたちは壁にぶち当たってしまったではないか。宮本が電話トリックを組み込んだ本当の狙いは、こっちにあるのかもしれないぞ」
「鈍行を乗り継いで、福島まで引き返したことの証明ですか」
浦上は取材帳を閉じた。
それにしても、物証のない事件《やま》だ。もちろんそれも、完全犯罪のための、必要不可欠な条件ということになろう。
そう、最後の最後に用意されている壁は、物証のないことかもしれない。浦上がそう考えるのも、(ぎりぎりなところへ構築された綱渡りのような一面を見せながらも)犯罪計画が意外と綿密に組み立てられ、探れば探るほど、奥行きを感じさせるためだった。
宮本の足取りをその通りに追って、福島駅での、一分の乗り換えのなぞが、順調に解明されたとしても、いってみれば、論理の上での、犯行証明に過ぎない。
谷田が発見した『吉井果樹園』の短冊も、物証には違いないけれど、それは結果として付随してくるものであって、短冊自体が、直接的に犯人を示唆するというわけではない。
「先輩、宮本は今頃、上野西署の捜査本部でしょうが、容易に落ちないのではないですか」
と、浦上は言った。
「松見アパート5号室を家宅捜索《がさいれ》したところで、凶器が出てくるとは考えられません」
「そりゃそうだ。完全犯罪を意図した人間が、簡単に発見される場所へ、凶器を捨てたりはしない。淑子を刺した凶器は、恐らく永遠に出てこないのではないかな。オレは、そう思う」
しかし、と、谷田は口調を改めた。
「物証が、皆無というわけではないぞ」
谷田の指摘は、成瀬が証言した黒いコートだった。
成瀬の家を訪れた際、宮本が手にしていたコートなら、鳥取を出るときから持っていたはずだ。と、すれば、成瀬のほかにも、黒いコートを証言する人間はいるだろう。
「やっぱり、それが決め手になると思うよ。いくら旅先とはいえ、まだコートを必要とする季節じゃない。捜査本部が睨《にら》んだように、あれは犯行時の、返り血を避ける準備に違いない」
コートが発見されて、ルミノール反応が検出されれば、文句なしだ。
「だが、当然、黒いコートは凶器と一緒に処分されているだろう」
「それはそうですよ。ここまで計画を練った宮本なら、それほどの物証を残すはずがありません」
浦上が、考えている通りのことを強調すると、
「コートがなくなっていれば、ないという事実が、裏返しの犯行証明になるじゃないか」
と、谷田は言った。
「犯行当日まで、所持していたコートだろ」
「しかし、鳥取で証人となるのが、たとえば宮本の家族しかいないとしたら、不利になることはしゃべらないのではないですか」
「きみのよく知っている駅員が、いるじゃないか」
「駅員?」
「JR船岡駅で、真理の電話を取り次いだ若い駅員だよ。彼は、宮本の�十四時三十二分�乗車を見送っている」
谷田は、浦上が口にした�最後の壁�には乗ってこなかった。
飽くまでも、宮本を先行の�やまびこ16号�で、上野へ運ぶことができれば、事件は解決という姿勢だった。