唐突《とうとつ》に、長谷《はせ》葛葉はそう言った。
船のエンジン音が高く響く。潮の匂《にお》いを深く吸い込んでから、風見《かざみ》桃子は振り返った。
甲板に、桃子以外の四人が輪になって座っている。
「葛葉ったらまた、変なことを言う」
坂之上《さかのうえ》聖が、葛葉を軽くこづいた。いたーい、と葛葉は大袈裟《おおげさ》に頭を押さえる。短く刈った髪が跳《は》ねている。ぽきぽきと折れそうに痩《や》せた身体《からだ》や、低めの声。男の子みたいな外見は、運動神経さえよければ、女子校の中では人気がでたかもしれない、と桃子は考えた。でも、葛葉はいつもぼんやりと、困ったような顔をして立っている子で、凛々《りり》しさにはほど遠い。
葛葉が唐突なことを言うのはいつものことだ。あの子はいつだって、自分の考えの中に浸《ひた》っていて、息継ぎするようにたまにことばを発する。
脈絡のないように見える葛葉のことばだけど、彼女の思考の中で、それはたしかに繋《つな》がっているらしい。時間をおくと、桃子にもその繋がりが見えることがある。
「で、無意識がどうしたの?」
金《キム》潤子が葛葉を促《うなが》した。葛葉は少し困ったように瞬《まばた》きして、そうして話しはじめた。
「なんか、わたしが考えたり、感じていることって、わたしの中のほんの一部みたいな気がするの。それに、わたしがなにも考えずにやったことが、あとになって、すごく大事なことだったとわかることもあって……」
葛葉は怯《おび》えたように口を閉ざして、みんなの顔を見た。
「わたしの言っていること、わかる?」
「わかんない」
「わかるわ」
梨本《なしもと》里美とユンジャが一緒に答える。葛葉はほっとした顔になった。桃子にはわかっている。葛葉はユンジャに聞かせたいと思って、その話をしている。里美がわからない、と言っても、それは葛葉の中では大した問題ではないのだ。
葛葉はユンジャに憧《あこが》れている。それは見ていればわかる。何事にも臆病で、要領の悪い葛葉にとっては、ユンジャのような女の子は眩しく映《うつ》るのだろう。
ユンジャは強い女の子だ。高二になって同じクラスになった日のことを、桃子は思い出す。新しく担任になったのは、五十近い日本史の教師だった。ぼそぼそとした声で、出欠を取り、彼女の名前を呼んだ。
「金《きん》潤子《じゅんこ》」
ユンジャは間髪《かんはつ》を入れずに立ち上がって答えた。
「ジュンコではありません。ユンジャです」
低いけど、よく通る声だった。桃子は驚いて、後ろを振り返った。彫《ほ》りの深い顔立ちの、いかにも気の強そうな女の子だった。まっすぐな視線で先生を見つめていた。
だが、その先もその教師は、ユンジャのことをジュンコと呼び続けた。二度目からはユンジャは訂正しようとしなかった。
桃子が一度、それを指摘したとき、ユンジャは少し莫迦《ばか》にしたような顔で笑った。
「いいのよ。そういう入っていくらでもいるもの。わたしは先生が間違っていることはきちんと伝えたわ。だから、その先は先生の問題。人の名前を間違って呼んでも平気なほど無神経な人だってことよ」
ユンジャは強い女の子だ。だけど、強いということは、ときに必要以上の亀裂を生む。クラスに彼女のことを嫌っている人も多い。
同じグループにいる聖ですら、一度ため息をつきながら、桃子に言ったことがある。
「ユンジャは、自分がわたしたちと違うことが、特別なことだと思っているみたい」
桃子にはよくわからない。ユンジャのルーツが桃子や聖たちと違うということは事実だし、もし、桃子自身が日本人ではないのに、日本という国に生まれてきたとしたら、自分のルーツに、どんな思いを抱くのかは想像もつかない。
だから、ユンジャがどうあろうとも、それをきついとか、刺々《とげとげ》しすぎるとか、そんなふうに思うことはできないのだ。
桃子は、なにかについて、考えたり、感想を言ったりすることが苦手《にがて》だ。本は好きなほうだが、夏休みの宿題として提出させられる読書感想文にはいつも悩まされた。本は、ただ、そこにあるというだけできれいだったり、すばらしかったり、もしくはつまらなかったりするものだ。それに、桃子がなにかを言ったところで、なにになると言うのだろう。
思いに耽《ふけ》りながら、ふと前を見ると、島がびっくりするほど近づいていることに気づいた。
「見て、もうすぐ着くよ!」
桃子は四人に向かって声をかけた。歓声がいっせいに上がった。