膝に頬《ほお》を擦りつけながら、桃子が尋ねた。
「十一時半」
ユンジャが即答する。聖も一歩遅れて、自分の腕時計を見た。極彩色《ごくさいしき》のスウォッチはたしかに十一時半を指《さ》していた。
「そろそろ迎えにきてもいい頃なんだけどな……」
待合室には電灯すらない。月が出ていなければ、きっとお互いの顔すら見えないだろう。今でも、みんなの顔はうっすらと見えるだけだ。
「お腹空いたよ」
里美がため息混じりに言う。聖だって、もうぺこぺこだ。ただでさえ、泳いだ後は、凶暴なくらい空腹を感じるのに、ビスケットの数枚なんてなんの足しにもならない。
最初はそれほど暗い雰囲気もなかったのに、今ではみんなぐったりとしている。むやみに焼いてしまった肌が痛いのも、つらい気分に拍車をかけているみたいだ。
いきなり里美が顔を上げた。
「ね、怪談しよっか。今やると、絶対|怖《こわ》いよ」
「やめてよ!」
自分でもびっくりするくらい強い口調で言ってしまった。
「あ、聖、怖がりだもんね」
ユンジャがくすくす笑う。たしかにもともと怖い話は好きじゃない。でも、それ以上に嫌な予感がした。怖い話なんてすると、なにか本当に危険なものを呼んでしまいそうな気がした。
「だって、ここ……きっとなにかいるよ……」
「ええっ!」
全員、がたがたと立ち上がった。
「なんかいる。感じるもの」
「やめてよう。聖のほうがよっぽど怖いよ」
里美が泣きそうな声で言いながら、ユンジャにすがった。桃子も葛葉も青い顔をしている。
みんなを怖がらせるつもりなんかじゃなかった。でも、たしかになんとも言えない邪悪なものを感じるのだ。薄暗くて大きなものが建物の外を覆《おお》っているみたいだ。
「聖って、霊感あるの?」
「わかんない。今まではそんなこと感じたことなかったけど……」
ふと、葛葉が顔を外に向けた。
「うん、いると思う」
「やだ、やめてやめて!」
里美の悲鳴が上がる。ユンジャが里美の頭をぎゅっと抱きしめた。
皮膚の表面がざわざわとする。血が逆流してくるみたいに熱い。
「ね、本当にやめようよ。なんかもう涙出てきそうだよ」
里美の情けない声に、聖はそれ以上言うのをやめた。葛葉も黙って、ベンチに座った。
聖たちは、今まで以上にそばに寄り、膝をつき合わせて座った。
なんとなく、もう話をする気にもなれなかった。桃子は唇を噛《か》みながら、自分のサンダルをじっと見つめていた。
ひんやりとした風が吹き込んでくる。ぞわり、と皮膚の表面が粟立《あわだ》って、聖はぎゅっと目を閉じた。
なにも考えたくはなかった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。木々のざわめく音と、身体の痛みで目を覚ました。待合室の中を見回す。
ほかの四人も眠っていた。桃子は膝を抱えて丸くなって、ユンジャと葛葉はお互いにもたれ合うようにして、そうして里美は、ベンチの上に長く伸びていた。
時計を見ると四時をまわっている。外はうっすらと明るい。結局夜のうちには迎えはこなかったらしい。朝の定期便は八時半くらいにここに着く。それまで待つしかないようだ。
変な体勢で眠っていたせいか、ぎしぎしと痛む身体を、縦に伸ばす。ギンガムチェックのシャツの背中が、びっしょりと汗で濡れていた。
汗を拭いて、顔を洗おう、そう思って聖はタオルを持って待合室を出た。
裏の水道のところまで行って、顔を洗った。明け方の空気は夏とは思えないほど、涼しくて気持ちがいい。
夜にあった嫌な気分が消し飛んでしまうようだ。タオルで顔を拭きながら聖は考えた。
散歩でもしてみようか。
たぶん、この島全体は、十五分もあれば一周できるほど小さいだろう。船着き場のあるこちらのほうは、急な坂で切り立ったようになっているけど、昨日泳いだ砂浜のほうなら、道も緩やかだし、緑も生い茂っていて、気分がいいはずだ。
聖はタオルを首にかけて歩き始めた。
散歩は好きだ。座っていれば、堂々|巡《めぐ》りになったり、嫌なふうに考えてしまうようなことでも、外を歩きながらだと、急に風通しがよくなったように明快になる。
聖はあまり、人と仲良くできない。聖が普通に振る舞える人は、二十人のうちひとりいればいいほうだ。
その他の人が、嫌いでたまらないわけじゃない。仲良くできない人の中でも、いい人だな、と思う人や、憧れてしまうほど素敵な人もいる。でも、駄目なのだ。
聖はそういう場合のことを「呼吸のリズムが合わない」と言うことにしている。実際、苦手な人の前だと、まるで呼吸困難に陥《おちい》ったように息苦しくなるのだ。
仲良しの四人の中でも、はっきりと呼吸のリズムが合う、と言えるのは、里美と葛葉だけだ。桃子は少し駄目、ユンジャになると、全然駄目。
なんで、みんなあんなにたくさんの人と、仲良くできるのだろう。聖は、ぼんやりと考えながら歩いた。
舗装された道ではないけど、獣道《けものみち》のように、人が歩いた跡が自然に分かれているので、そんなに歩きにくいわけでもない。
聖には五つ年上の姉がいる。彼女も子供のときは、聖と同じように引っ込み思案で内弁慶だった。「呼吸のリズムが合わない」ということばも、姉が最初に言い出したのだ。今ではそうではない。滅多《めった》にこない親戚のおばさんと喋るときも、にこやかに笑《え》みを浮かべて、お世辞なども言う。
聖にはそんなことはできそうにない。
一度だけ聞いた。
「どうして、お姉ちゃんはみんなと仲良くできるようになったの?」
「慣れただけよ」
姉は笑いながらそう言った。
「そのうちわかるようになるわ。呼吸のリズムが合わなくても、それなりにやっていくことはできるの。息を止めるの。こっちが呼吸をするのをやめるの。向こうが呼吸するのだけ聞いているの。そうしたら、喋れるし、笑う振りだってできるわ」
なんて、苦しそうなんだろう、と聖は思った。姉はこうも言った。
「大人になっちゃうとしょうがないのよ」
大人になんかなりたくない、そう思った。仲良くできない人と無理に仲良くなんかしたくない。息苦しいのは大嫌いだ。
聖は何度も心の中で繰《く》り返した。
姉や、里美や葛葉とか、リズムの合う人とだけ話ができて、笑えればそれでいいのだ。
聖は深く考え込んでいた。だから、聞こえなかったのだ。そのものが近づく音を。
いきなり衝撃が走った。なにか細いものが首に食い込む。
「く……」
息ができずに、聖は声を詰めた。必死になってもがくが、後ろにいるものには届かない。
息が苦しい。目の裏が真っ赤になる。
じたばたと両手を振り回しても、苦痛はなくならない。喉《のど》からなにかがせり上がってくる。
ぷつん、と身体の中で一本の糸が切れた。
聖の身体はぐったりと崩れ落ちた。