桃子は自分の鞄の中を探った。棒つきキャンディがひとつ出てきて、桃子はため息をついた。
「こんなのがあった」
ユンジャはちらりとそれを見た。
「桃子が持ってきたんだから、桃子が食べなさいよ。糖分だけでもとっておくと違うわよ」
そう言ってから少し首を傾《かし》げた。
「でも、一口だけ舐《な》めさせて」
そのキャンディは三人の間をぐるぐるとまわった。ほんの少しだけだけど、頭がはっきりしてきたような気がする。
桃子は葛葉に尋ねた。
「どうして、連絡船は事故にあったの?」
「それが、ラジオでははっきり言っていなかったの。エンジントラブルの可能性があるって言っていたけど」
「エンジントラブルくらいで船が沈む?」
「わかんないけど……」
船のことにはまったく詳《くわ》しくないから、わからないのは桃子だって同じだ。
「だから、助けがこなかったんだね。みんな、わたしたちも船に乗っていて行方不明だと思っているんだ」
ユンジャはどこか遠い目でそう言った。
「じゃあ、お父さんやお母さんも、わたしが溺《おぼ》れて死んでしまったかもしれないって思っているのかな」
葛葉はもうなくなってしまったキャンディの棒を噛みながらうつむいた。
「たぶん、ね。宿のおばさんが、家に連絡したんじゃないかな」
だとしたら、桃子の両親ももしかしたら対岸の町にきているかもしれない。なんとかして、助けを呼ぶ方法はないのだろうか。
葛葉がラジカセを引き寄せた。
「もう一度、ラジオつけてみようか」
周波数を変えながら、はっきりとした音を探す。やっと飛び込んできた声は、下品なお喋りを続けていた。胸が悪くなるような気がした。
「ニュース、やっていないみたいだね」
葛葉も同じ気分になったのか、ラジオを消した。
桃子は深くため息をついた。
桃子たちはまだ生きている。でも、それがいつまで続くのかはわからない。それを海を越えた向こうに伝えることさえできれば……。
ユンジャが急に立ち上がった。待合室の隅にあるロッカーに近づいて、ドアを開ける。
そのロッカーの中身は昨日のうちに覗いてみていた。掃除道具の竹箒《たけぼうき》やバケツがあるだけだった。
ユンジャは竹箒を取りだした。
「どうしたの? ユンジャ」
「桃子、ここ踏んで」
竹箒の掃《は》くほうを指さす。桃子は不審に思いながらも、言われたとおりそこを踏んだ。
ユンジャも足で、竹箒の棹《さお》をきつく踏んだ。そのまま力を入れる。
派手な音がして、竹箒は折れた。
「な、なにするの?」
「少しでも武器になるかと思って……」
ユンジャは平然とそう言った。たしかにぎざぎざに折れた竹箒の先は、人を刺すことだってできるのだろう。その、尖った部分を見ていると、ユンジャの意志の激しさが伝わってくるようで、桃子は眩暈《めまい》のようなものを感じた。
葛葉もびっくりしたらしかった。
「そんなのやだよ……」
「なにもあんたたちに持ってくれ、なんて言っていない」
ユンジャは冷たく言った。よく考えれば、今はユンジャの認識のほうが正常なのかもしれない。戦わなければ、わたしたちは殺されてしまうかもしれないのだ。
桃子は立ち上がった。室内を見回して、身を守るため役に立ちそうなものを探す。屑籠《くずかご》の位置を固定するために置かれているブロックに目がいった。
「こんなものでも役に立つかな」
「たぶん、ないよりはましでしょ」
ユンジャはどこか投げやりな口調で言った。桃子は二個のブロックを抱えると、自分の座っている横に置いた。
(こんなもので殴ったら、きっと死んじゃうでしょうね)
頭の中に描いた情景は、まるでコメディ映画のように現実感がない。映画や漫画の中では、いくら鈍器で殴られようと、血を流そうと、次のシーンではけろりとしている。現実の死はそういうものではないだろう。
現に里美は、船着き場で事切れている。もう二度と笑うことも、喋ることもないだろう。
そう思うと、全身に鳥肌が立つようだった。
だれだかわからない殺人者は、本当に里美を殺したのだ。
「里美……」
なにも考えずに、唇が名前を呼んでいた。ふたりの視線が桃子に集まる。
ユンジャは折れた竹箒を、壁に立てかけた。
「里美をなんとかしてあげなきゃ。あのままじゃ可哀想だもの」
葛葉も頷いた。三人で外に出る。里美の亡骸《なきがら》は、まだそこにあった。
「どうしよう……」
本当は目の前の海にそっと流してあげたいと思った。静かに波の合間で眠らせてあげたかった。でも、そんなことはしてはいけないのだろう。
ユンジャがビーチタオルを持ってきた。一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した後、決意したように里美の亡骸に近づいて、頭をタオルで覆った。
無惨な傷口が隠れ、やっと桃子は里美の遺体を正視できるようになった。
「待合室に運ぶ?」
葛葉が尋ねる。桃子とユンジャは顔を見合わせた。帰れるのはいつになるのかわからない。この暑さでは、死体が腐敗するのも早いだろう。
妙に冷静に考えてしまった自分に、少し自己嫌悪を感じながらも、桃子は言った。
「里美には悪いけど、どこか違う場所で眠ってもらおうよ」
ユンジャも頷いた。桃子は自分に言い聞かせる。わたしたちは生きなければならないのだ。
「桃子、足のほう持ってくれる?」
ユンジャはそう言って、里美の上半身を抱き上げた。あわてて、言われたとおり、足を抱き上げた。
冷たいふくらはぎが肌に貼り付いて、桃子は一瞬息を呑んだ。これが死んだ人の感触なのだ。
その感触はなににも似ていない。人の肌の柔らかさも、温《ぬく》みもなかった。
桃子は一瞬にして理解した。
死んだ人は、物になってしまうのだ。
自分の頬を涙がつたっていることに気づく。それは里美の皮膚よりもずっと熱かった。
桃子たちは、里美の亡骸を、生い茂った草むらの中に寝かせた。頭はタオルで覆ったままにしたから、里美はまるで眠っているように見える。
桃子はずっと考えていた。
死んでしまった人のために、いったいなにをしてあげられるのだろう。