相変わらず、片手に竹箒を持ちながら、ユンジャはぽつり、と言った。
桃子はユンジャの横顔を見つめた。彼女だってひどく青い顔をしている。いつもは赤い唇にもほとんど色はない。
葛葉だけではないのだ。ユンジャだって、桃子だってまいっている。
これがゲームだったら、とっくにコントローラーを投げ出しているところだ。
だけど、現実はリセットすらできない。
桃子は立ち上がった。
「水、汲《く》んでくる。ついでにタオルも濡らしてくるわ」
「一緒に行こうか?」
「そうすると、葛葉がひとりになっちゃうもの。大丈夫。でも、それ貸して」
手を伸ばすと、竹箒を渡してくれる。さすがにブロックを持ち歩くわけにはいかない。
桃子は水筒とタオルを持って、待合室を出た。
トイレの前の水道で、水筒に水を汲んで、タオルを濡らす。
風が枝を揺らす音にさえ、身体がぴくりと反応する。まるで、全身の神経が剥《む》きだしになっているみたいだ。
ふと、強い視線を感じた気がした。タオルを取り落として、竹等を握りしめる。そのままあたりを見回した。
心臓が止まりそうだった。
坂の上に男が立っていた。帽子を深くかぶって、顔の上半分を包帯で覆っているから表情は見えない。でも、そんなに若くはないはずだ。
男と桃子の距離は百メートル近く離れていた。向こうもたぶん、桃子を見ている。だが、この距離なら走って逃げることは可能だ。これでも足には自信がある。
桃子は水筒とタオルをひっつかんだ。じりじりと後ずさる。
男は動こうとはしなかった。たぶん、この距離では不利だと気づいているのだろう。
桃子は駆け出した。待合室に飛び込む。
「どうしたの?」
葛葉のそばにかがみ込んでいたユンジャが、こちらを向く。
「男の人がいる!」
「なんですって!」
外に出ようとしたユンジャを腕をつかんで引き止める。
「駄目! たぶん、わたしたちがまたひとりになるのを待っているのよ」
ユンジャは苛立《いらだ》ちを抑えるように、きつく爪を噛んだ。
「やっぱり、わたしたち全員を殺そうとしているの?」
「わからないけど……でも友好的には見えなかったもの」
「顔は見た?」
桃子は首を横に振った。
「見えなかった。包帯みたいなのをしているの。帽子もかぶっているし……」
ユンジャは窓の外に目をやった。
「どんな様子だった?」
「こっちを窺っているみたいだった。距離があったから、向かってこようとはしなかったけど……でも」
「でも?」
「なんか、すごく嫌な感じだった」
ユンジャはきゅっと眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。桃子は、眠っている葛葉のそばに近づいた。濡らしたタオルで彼女の額を拭う。
「わたしたち、本当にどうなっちゃうんだろう」
ユンジャは返事をしなかった。
夜になると、葛葉の熱が上がった。桃子はとりあえず、解熱剤を飲ませて、もう一度寝かせた。
今夜もまた月が出ている。それだけが幸運と言ってもいいくらいだ。月がなければ、この灯《あか》りのない小部屋は真っ暗で、一寸先も見えないだろう。
ユンジャも桃子も眠る気にはなれなかった。
身体の横に、折った竹箒や、ブロックを置いて、もしだれかがきたときに備える。
ユンジャはぽつりと言った。
「戦争ってこんな感じなのかしら」
今まで、自分の命がこの先続かないなんて、考えたこともなかった。明日は必ず、今日の続きで、だらだらと流れていくのだと思っていた。
「ねえ。この島にいるのは、あのひとりだけだと思う?」
ユンジャの問いに答える。
「わたしはそう思う。もし、わたしが犯人で仲間がもうひとりいたら、この待合室を襲撃するわ」
女の子が三人に、男がふたりなら、勝ち目はある。そうではないから、襲ってこないのだと桃子は考えた。
ユンジャはまた問いかけた。
「わたしたちを殺して、なんのメリットがあるって言うの?」
「わからない」
お金なんか持っていないし、だれかに殺されるほど恨まれる理由なんてない。たぶん、聖だって里美だってそうだろう。
桃子たちは、ごく普通の高校生なのだ。桃子たちのまわりの世界なんてたかが知れている。勉強だとか、音楽だとか、お菓子だとか、そんなものがほとんどを占めているのだ。殺される理由なんて思いつかない。
「理由なんかないのかな」
ユンジャは熱に浮かされたような声でつぶやいた。
「え?」
「理由なんかなくても、人のことを憎んだり、傷つけたいって人たくさんいるもの。理由がなくても人を殺す人だっているかもしれない」「そんな……」
ユンジャは髪をかきあげて笑った。
「わたし知っている。人を傷つけないと、不安な人っているのよ。自分が不安定でつらいから、ほかの人を傷つけて、そうしてやっと生きているの。理由なんかなくていいの。たとえば、国籍が違うとか、住んでいるところが違うとか、そんな理由だけでその人たちには充分なのよ。今、この島にいるのもそういう人なのかもしれない」
ユンジャは笑っていたけど、その笑顔は楽器の弦《げん》のように張りつめていた。触れると指が切れてしまいそうだった。
桃子はふいに、気がついた。理不尽《りふじん》なことや、曖昧なことを飲み込んで、桃子たちは大人になるのかもしれない。桃子の知っている大人の人は、みんな理不尽なことにも寛容だったから。
里美や聖は、それを受け入れる過程で弾《はじ》かれてしまったのかもしれない。
そうして、桃子やユンジャや葛葉は、それを受け入れることができるのだろうか。
たぶん、今、なにかが変質しているのだ。桃子たちを含む世界が。