桃子は彼女がいつ、本当に事切れたのかわからなかった。
ある瞬間から、喋らなくなり、眠るように目を閉じた。でも、そのときはまだ、か細い脈打ちはあった。何度も何度も、それを確かめるように、首筋に触れている間に、いつの間にかそれすらなくなっていたのだ。
ユンジャは静かに、彼岸に渡ってしまった。あまりに静かすぎて、泣いていいのかどうかすらわからなかった。泣いてしまうと、本当に彼女の死を認めてしまうような気がした。
桃子は立ち上がって、ユンジャの鞄を拾いに行った。たしかにその中には、二、三日生き延びられるだけの保存食が入っていた。
桃子は、ベンチに座って乾パンの袋を開けた。口の中に押し込むようにそれを食べ、水で流し込んだ。
葛葉は驚いたような顔で桃子を見ていた。
「葛葉も食べなさいよ」
「いや、欲しくない。なんにもいらない」
彼女は激しく首を振る。
「ユンジャを無駄死にさせるつもりなの?」
冷たい口調で言った。葛葉は顔をくしゃくしゃにして啜り泣いた。
葛葉にはそれ以上かまわず、桃子は食べた。堅い食物を、音をたてて噛み砕いて、そうして飲み込んだ。
葛葉がゆっくり立ち上がった。そうして、桃子の隣りにやってきて座る。
桃子は乾パンの袋を彼女に差し出した。葛葉は手を伸ばして、ひとつ取った。
葛葉は食べながらつぶやいた。
「わたしたち、ゆうべのうち、三人で海に入って死んでしまえばよかった」
たしかにそれもよかったかもしれない。そうすれば、こんなつらい思いもせずにすんだ。笑いながら手をつないで、まっすぐ海に入っていけばよかった。
でも、もう遅いのだ。ギアは切り替わった。ユンジャが切り替えたのだ。桃子たちが生きるように。
葛葉にもそれはわかっているのだろう。乾パンと干し無花果《いちじく》を少しずつ食べて、そうして水を飲んでいた。
桃子は、鞄の中からビーチマットの代わりにした布を取りだして、ユンジャの身体の上にかけた。
「聖を、探しに行こうか……」
そう言うと、葛葉は静かに頷いた。
食物を取ったことで、ぐったりとしていた心と身体が動きはじめた気がした。
スコップを片手に立ち上がる。もう片方の手で、葛葉と手をつないだ。
ふたりで手を握り合ったまま、砂浜を歩いた。空は憎たらしいほど晴れていて、砂浜には光が溢れている。
自然は最初の日となにひとつ変わらない。なのに、あの日のことはもう遠い夢みたいだ。
林の中で、ユンジャのブレスレットを探した。時間はかかったけど、それは見つかった。張り出した枝にきらきらと光るそれが留められてあった。
わざとらしく落ち葉が積み上げられた場所を、軽く踏んでみる。ほかの場所よりも、土が軟らかい。
桃子はそこにスコップを差し込んだ。何度も土を掘り返す。汗が流れて額をつたい、目に入った。
途中で葛葉と交代して、また続ける。五十センチくらい掘ったところで、青いギンガムチェックの布が覗いた。
葛葉は大きな目を見開いて、桃子を見た。頷く。間違いなく聖の服だ。
桃子も手で葛葉を手伝った。爪の間に土が入って少し痛いが、それどころではない。
やっと聖の顔が覗く。葛葉は小さな悲鳴を上げて、スコップを取り落とした。
「ひどい……」
聖の顔は無惨に変貌していた。紫色に染まり、舌まで出ている。たぶん、首を絞められたのだろう。彼女の細い首には、鬱血《うっけつ》の痕《あと》があった。
桃子は顔を背《そむ》けた。ぷん、と漂《ただよ》う不快な匂いは、死臭なのだろう。
もしかして、掘り出さなければよかったのかもしれない。そう思ってしまってから後悔する。
どんな姿になっても、聖は桃子たちの仲間だ。こんなところに埋められていていいわけがない。
聖の腕をつかんで、穴から引っぱり出した。死んだ仲間に触れるのも三人目だ。
(いいかげんに慣れてきたわよ)
桃子は自分に言い聞かせ、聖を持ち上げた。
とたんに桃子は自分の目を疑った。
聖の下に、もうひとつ死体があった。
急に葛葉が叫んだ。
「桃子!」
はっと顔を上げる。向こうの方から男が走ってきていた。よろよろと、おぼつかない足取りだが、間違いなくこちらに向けて。
血に染まった包帯で顔は見えないけど、憎悪の波動がこちらに伝わってくるようだ。桃子は聖の手を離した。
「葛葉。逃げよう!」
ふたりで駆け出す。少なくともこちらは怪我《けが》などしていないから、引き離すのは簡単だろう。
走っているうちに、男は見えなくなった。
息を切らして葛葉が尋ねた。
「待合室に戻る?」
「今は駄目。先回りされているかもしれない」
葛葉の顔が泣きそうに歪《ゆが》んだ。桃子はわざと力強く言った。
「見たでしょう。あの様子。たぶん怪我をしているわ。逃げ回っていれば捕まらないわよ」
葛葉は少しだけ、なにか言いたげな顔をしたが、口を閉ざして頷いた。
桃子は尋ねた。
「見た?」
「なにを?」
「聖の下に、もうひとつ死体があった」
「ええっ!」
桃子だって、幻覚かと思った。でも間違いない。背広を着た、それほど背の高くない男の死体だった。俯せになっていたから、顔は見えなかったが、死んでいることはわかった。
背中がどす黒く染まっていたから。
そう、ユンジャのように。
「どうして……?」
葛葉の問いに、桃子は考え込んだ。なんとなく、ばらけていたパーツがひとつになるような気がした。
「もしかして、あの男は、殺人をするためにこの島にやってきたのかもしれない。殺して、埋めて、証拠|湮滅《いんめつ》をするつもりだったんじゃないかな。無人島だから、だれにも見られないはずだった」
「でも、わたしたちが残ってしまっていたってこと?」
桃子は頷いた。
「わからないけど……もしかしたら聖はそれを目撃してしまったのかもしれない。それで、聖も殺した。ほかの仲間も殺してしまえば、外部の人間は船の事故で死んだのだ、と思ってくれる。だから、全員殺そうとした。ひとりでも生かしておくわけにはいかない。だって、船の事故で死んだんじゃないことが、ばれてしまうもの……」
葛葉はかすかに口を開けた。迷うようにもう一度閉じる。桃子は言った。
「運が悪かったのかな、わたしたち……」
「わからない……」
いいのか悪いのかなんて、もうどちらだっていい。ユンジャの言ったように、船の事故でみんな死んでしまうよりはましだったのかもしれない。でも、もうそんなことは些細な違いだとしか思えないのだ。
桃子たちは、そのまま砂浜で座りこんでいた。
ここなら、どこから男が現われても、すぐに走って逃げられるだろう。
「喉が渇いた……」
しばらくして葛葉がつぶやいた。桃子も同じことを言おうとしていた。
真夏の砂浜は暑く乾いている。全身から水分が抜けてしまったようだ。けれども、真水の水道は待合室のそばと裏の高台にしかない。
「様子を見ながら、戻ってみる?」
あの男の走り方を見る限り、かなりひどい怪我をしているようだった。それほど警戒することもないかもしれない。
ふたりで、砂浜を歩いて、船着き場の方へ向かった。
船着き場には人影はなかった。待合室を覗いてみる。ユンジャは先ほどと同じ姿のまま、目を閉じていた。ほかにだれかが潜《ひそ》んでいる気配もない。
桃子は待合室に入った。葛葉もあとに続く。
水筒に汲んであった水を、葛葉と分け合って、喉を鳴らして飲む。ただの水道水が、こんなにもおいしいなんて、今まで感じたことはなかった。乾いていた全身が潤《うるお》っていくようだった。
がたん、となにかが倒れる音がして、桃子は振り返った。
ロッカーが開いて、男が飛び出してきた。
手に、包丁が握られている。それを振り上げて、男は桃子に飛びかかった。
一瞬遅かったら、どうなったかわからなかった。思わず飛び退いた桃子の腕を、包丁は切り裂いた。
痛みなど感じなかった。
夢中で、そばにあった鞄を、男に投げつけた。鞄の中身が散らばって、男は少しひるんだ。
「葛葉! 逃げるわよ!」
桃子は葛葉の手をつかんだ。ふたりで待合室を飛び出して走る。男は追ってきた。先ほどのよろよろとした走り方ではなかった。
まっすぐに普通に走っている。
桃子は気づいた。
さっきのは、わたしたちを油断させる演技だったのかもしれない。
だが、彼と桃子たちでは基礎体力が違う。どんどん男は見えなくなる。
桃子と葛葉は林の中に逃げ込んで、荒い息をついていた。
今頃になって、桃子は二の腕がじんじんと痛んでいることに気づいた。
見れば、指先まで血でぬるぬるとしている。
葛葉はポケットからハンカチを出して、桃子の傷の上を堅く縛ってくれた。
桃子は額の汗を拭った。
今のところ、体力に差があるから、そう簡単には捕まらないだろう。でも、この先はどうかわからない。
少なくとも、追うほうと追われるほうでは精神状態が違う。葛葉だけでなく、桃子もあっという間にまいってしまうだろう。
桃子は深いため息をついた。ユンジャがギアを入れ替えてくれたと思った。
だけど疲れた。さっさと捕まって殺されてしまえば楽かもしれない。
ほかのみんなだって、逝《い》ってしまったのだ。
桃子はどこか笑いたいような気分でつぶやいた。
「疲れたね」
葛葉が急にしがみついてきた。汗の匂いのする髪が肩に押しつけられる。
「ごめん、桃子、ごめん!」
「なんで葛葉が謝るのよ」
葛葉は泣きじゃくりながら叫んだ。
「だって、わたしのせいだもの。みんなが殺されたのは、全部わたしのせいだもの!」