私は本書取材のために、数多くの現役選手をインタビューした。意外な試合の、意外なエピソードを話してくれる者、思わず噴き出してしまう、とぼけた実話などエピソードは底なしにひろがっていく。
だが、取材した私が「この男には参った——」と、感動のあまり、その選手の顔をじっと見つめたのは、福士敬章投手(鳥取西高、当時広島、現韓国)しかいない。
さて私が福士に、本書の狙いどころを説明すると、彼は次の試合を答えてくれた。
昭和54年11月4日、大阪球場で行われた近鉄対広島の日本シリーズ第7戦である。私は福士の答えてくれた試合を聞いて、本当のところ腰を抜かした。
なぜ、この試合で腰を抜かしたのか。実はこの試合こそ昭和25年以来、30年間におよぶ日本シリーズ史上、最高の名勝負・名場面といわれた「江夏豊投手がカーブで石渡茂遊撃手のスクイズを空振りさせた」あの歴史的試合だった。
くどいようだが、もう一度書く。江夏豊の名前だけが、将軍のように伝えられる試合なのに、なぜ福士はこの試合を選んだのか。
先発は鈴木啓示投手(近鉄)と山根和夫投手(広島)で始まった。広島は一回に1点、三回に1点を入れ、2対0と引き離した。しかし近鉄も五回に2点をとり、2対2の同点に持ち込んだ。
ところが広島は六回にまた2点を加え、4対2とリードした。そして問題の六回裏、近鉄の攻撃を迎えるのである。
近鉄は無死、三番・マニエル右翼手が右前安打で出ると、四番・栗橋茂左翼手も左前安打し一、二塁とした。ここで古葉竹識監督は山根に代えて2人目の福士をリリーフに送り込んだ。
「投球回数5回、投球数65球、打者数22、被安打7、失点3、自責点3」
これが山根の投球内容である。
西本幸雄監督は五番・有田修三捕手にバントさせ、一死二、三塁と持ち込んだ。この場面で福士の死にもの狂いのピッチングがつづく。
六番・羽田耕一三塁手の三塁ゴロで、三塁走者のマニエルがホームイン。七番・アーノルド二塁手は左飛で近鉄は1点に終わった。つまり福士が羽田かアーノルドのうち、どちらかに安打されていたらスコアは4対4の同点になっていたと思う。
福士は七回裏、八番・平野光泰中堅手を遊ゴロ、九番・柳田豊投手の代打・永尾泰憲には右前安打されたが、一番石渡を三邪飛に料理したところで、3人目の江夏と交代した。
「投球回数1回2/3、投球数20球、打者数6、被安打1、奪三振0、与四球0、失点0、自責点0」
これがこの試合における福士の全記録である。
「一死二、三塁というピンチ場面を三塁ゴロの最少1点で食いとめて江夏さんにバトンタッチできた——このピッチングを私は誇りに思っています。あの場面で1点に食いとめておいたからこそ、最終回無死満塁のとき、江夏さんががんばってくれたと思います」(福士敬章)
私は福士に質問した。
「日本シリーズが語られるとき、あの試合の江夏豊の名前が語りつくされる。しかし福士敬章の名前は一字も出てこない。それでいいんですか」
すると福士はこんな返事をするのである。
「私は誰のためにも野球はやっていないんです。ただ自分のために野球をやっている。だからこの自分が納得すれば幸せなんです」
私は昭和1ケタ生まれ、福士は昭和25年12月27日生まれ、ずい分と年の差はある。それなのに、この心の広さはどうだろう。私はこれから江夏豊の名勝負・名場面を書くとき、福士敬章の名前もそれと同じぐらいの比重で書こうと思う。