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運命を変えた一球08

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:斎藤明夫 度胸があれば道はひらける 斎藤明夫投手(大商大、大洋)が昭和56年11月、明雄から明夫に改名した。なにがきっかけで
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斎藤明夫 度胸があれば道はひらける
 
 斎藤明夫投手(大商大、大洋)が昭和56年11月、“明雄”から“明夫”に改名した。なにがきっかけで改名したのか。実はこの3月21日、横浜市南区上大岡3ノ20から同市港南区日野町1980に引っ越す。家族は典子夫人(当時25歳)と長男誠宏ちゃん(当時1歳)である。
「引っ越しするのを機会に印鑑研究家、姓名判断研究家の泉先生に見てもらったら、明雄より明夫の方がいいというので」(斎藤明夫)
 さて、斎藤をめぐって噴き出すようなエピソードがある。
 昭和52年、斎藤は「試合数38、8勝9敗、防御率4・40。投票総数194票のうち、得票113票、得票率58・2%」で新人王に選ばれた。
「斎藤が新人王に当選した」
 このニュースが流れたとき、大洋ナインは「おめでとう」「よかった」という前に、誰もが顔を見合わせた。その顔にはこう書いてあった。
「それでなくても、ひとこと多いのが、これで当分、いよいようるさくなる」
 この話でもわかるように、斎藤はひとこと多い。態度が大きいというのは、かなり有名だ。
 だが、私は斎藤を取材して思うのである。本当の斎藤は中学生のように純情なのではないか。いや女子中学生のように傷つきやすいのではないかと思った。
 昭和52年7月29日の深夜、斎藤は川崎市中原区等々力にある大洋宿舎で寝つかれない。当時、独り身の彼は二階一番奥の六畳間にいたのだが、暑さとやりきれなさで寝つくどころではない。
 翌30日、後楽園球場での巨人対大洋21回戦に斎藤は先発するのだが、それが恐ろしくて寝られないのか。そうではない。斎藤が寝られないのは王貞治一塁手の本塁打と結びついていた。
 王はその前日、つまり7月28日、神宮球場で行われたヤクルト対巨人20回戦の三回二死後、松岡弘投手から38号本塁打を打った。この38号が実は通算754号にあたった。
 王が754号を打った瞬間から日本中が沸きに沸いた。なぜなら米大リーグのハンク・アーロン(ブレーブス─ブリュワース)の持つ本塁打記録755号にあと1本と迫り、逆転は時間の問題だからだ。
 これは余談だが、アーロンは1954年(昭和29年)4月23日、セントルイス・カージナルス戦の四回、ラスキ投手から第1号本塁打を打って以来、755号をマークした。王は昭和34年4月26日、後楽園球場での巨人対国鉄6回戦の七回二死後、カウント2─1後の4球目、村田元一投手のカーブを右翼席2点本塁打した。これが王の第1号本塁打である。以来、王が200号、400号、500号、800号など、区切りのいい本塁打を打つたびごとに「第1号は村田からだ」と村田の名前が出て、そのたびごとに報道陣が村田の談話を取材しに行く。最初はガマンしていた村田も、最後には頭にきて談話を拒否した。
 話題を斎藤にもどそう。もし斎藤が王に39号本塁打を打たれたら、それはちょうどアーロンの持つ755号とタイ記録になってしまう。そこで斎藤は悩みに悩むのだ。
「アーロンのタイ記録というのは、プロ野球史上、永遠に残る記録ですからね。その王さんの記録に私の名前がきざまれたらどうしよう——。そう考えたら頭は冴える、気分は重くなる、頭に浮かんでくるのは本塁打を打たれた場合のことばかりなんですよ。新聞記者がわっと寄ってくる。なぜ本塁打されたのか、その理由を質問される。ふと気がつくと自分で質問して、自分で答えているんです。顔中べったり脂汗ですよ」(斎藤明夫)
 午前5時前、明るくなりだして斎藤はうつら、うつらした。すると夢を見る。王がお立ち台にのぼり、ヒーローインタビューを受けている夢だ。
 くりかえすが、あの時点の日本列島は王をめぐって沸きに沸いた。しかしその陰で、王と勝負する先発投手が脂汗を浮かべ、夢にうなされていたのを読者は知っていたろうか。先輩や同僚から「斎藤のヤツ、ひとこと多いんだよ」といわれていた彼も、女子中学生のように悩み、寝返りを打ちつづけていた。
 だから問題の当日、後楽園球場にやってきた彼は寝不足だった。だが、人間なんて不思議なものだ。寝不足で、もんもんと寝返りを打っていた男が、とんでもないピッチングをやり始めるのである。
 さて一晩中、悩み抜いた斎藤はどんな悟りを開いたのか。基本的にはなにを考えて登板しようとしたのか。
「打たれたらアーロンとタイ記録755号だ、という意識を忘れろ、持つなといっても無理ですよ。だから、これは考えても仕方がない。ただ、そのために逃げるな、逃げて本塁打を打たれたら、一生涯悔いを残すぞと自分で自分にいい聞かせました。逃げないためには、王さんを“ただの人”と思い込むことです」(斎藤明夫)
 思えば斎藤もずいぶんと、いい度胸をしている。この時点の王は通算本塁打754号も打っているのに、新人斎藤はプロ入り5勝6敗である。「754号対5勝」の勝負なのに、5勝が754号を“ただの人”と思い込もうという。いい度胸というか、途方もない度胸といったらいいのか。
 試合が始まった。一回裏二死後、王が第1打席に入った。
「逃げるな、逃げるな」
 そればかり胸の内でくりかえし、投げているうちに、カウント1─3から四球となった。
 ところで大洋は二回表、五番・田代富雄三塁手の2点本塁打、四回表、七番・山下大輔遊撃手の中前安打で1点を入れ、3対0とリードした。そこで斎藤にも余裕が出てきた。
 四回裏無死、王が第2打席に立ったとき、この余裕から内角、内角と押しに押した。そしてカウント2─2後の5球目、内角の速球で一塁ゴロ。ここでも斎藤が勝った。しかし王もそれほど甘くはない。六回裏無死の第3打席には、初球、内角の速球を右前安打した。そして八回裏無死、問題の第4打席を迎えた。
「当日の観客は5万人ですからね。それがホームラン、ホームランで沸きますから、マウンドにいると押しつぶされそうですよ。“王さんはただの人”と自己暗示をかけながら、スローカーブで勝負に行ったんです」(斎藤明夫)
 この場面で本塁打されたら、おれの名前はプロ野球史上、村田元一投手のように永遠に残るという打席で、斎藤はスローカーブを投げた。度胸がなければできる芸当ではない。カウント1─1後の3球目、王は外角スローカーブを三塁ゴロ、ついに755号は実現しなかった。
 そしてもうひとつ、気がついたら試合は5対0で大洋が勝った。
「プロ入り初完投、初完封でした。投手とは押しに押すものだ、そうすれば道はひらけると教えられましたね」(斎藤明夫)
 斎藤が王を抑えた翌31日、同球場で巨人対大洋22回戦が行われた。
「こんどはおれの番か」
 試合前からふるえ上がっていたプロ4年生、三浦道男投手は一回一死後、簡単に王に755号、ハンク・アーロンとタイ記録本塁打を打たれた。
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