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運命を変えた一球09

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:間柴茂有 一瞬のひらめきをものにせよ 男なんて不思議なものだ。プロ入団以来11年間もかかって、やっと通算成績33勝(49敗)し
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間柴茂有 一瞬のひらめきをものにせよ
 
 男なんて不思議なものだ。プロ入団以来11年間もかかって、やっと通算成績33勝(49敗)しか稼げなかった男なのに、気がついてみたら1年間で15勝(0敗)も勝っている。いったい、この男になにが起きたというのか。間柴茂有投手(比叡山高、日本ハム)をめぐる話である。
 もう少し詳しく伝えてみよう。間柴は昭和45年大洋に入団、52年までに13勝27敗、53年日本ハムに移って3年間で20勝22敗、これでプロ11年間の通算成績は33勝49敗、勝率4割2厘である。
 ところが、間柴は昭和56年、開幕15連勝という日本記録をつくって勝率10割、それまでの開幕13連勝記録保持者、御園生崇男投手(22年、阪神)、堀内恒夫投手(41年、巨人)を抜いた。
 くどいようだが、もう一度書く。なぜ11年間で33勝(49敗)の男が、たった1年間で15勝(0敗)も勝てたのか。私はそこのところをドリルで穴をあけるように間柴に質問した。すると間柴はこんな返事をするのである。
「2年前の8月、近鉄戦でKO負けしたんです。なにが原因でKOされたのか、考えても考えてもわからない。それが昨年の6月の近鉄戦でやっとわかったんですね。1年越しの答案用紙が書けたと体がふるえました」(間柴茂有)
 順を追って説明しよう。
 昭和55年8月2日、平和台球場で近鉄対日本ハム4回戦が行われ、間柴は先発した。細かな得点経過は省略するが、六回表日本ハムの攻撃が終わった時点でスコアは4対2、日本ハムがリードしていた。
「きょうはいただきだ。7勝目は堅い」
 間柴も腹の中でニヤリと笑った。
 六回無死、間柴は四番・指名打者マニエルを歩かせた。五番・栗橋茂左翼手が打席に入ったとき、間柴は考えた。
「内角球はあぶない。逃げるカーブで外角球がいい」
 ところが、その外角球のカーブを左翼線二塁打されて1点。4対3と1点差に追い上げられた。つづく六番・アーノルド二塁手の投ゴロで栗橋は三進、一死三塁の場面となった。外野フライで同点である。打席に七番・梨田昌崇捕手が入った。
「梨田は第1打席二ゴロ、第2打席遊ゴロと落ちるシュートで料理している。こんども低めにシュートを落としておけば間違いない」
 そう判断した間柴は、落ちるシュートを投げたが、これが外角高めに入った。梨田の打球は中犠飛となり、4対4の同点になった。さらに八番・羽田耕一三塁手にも右前安打されたあと、九番・吹石徳一遊撃手と顔を合わせた。
「外角球は流される。思い切って内角速球だ」
 だが、吹石にはその内角速球を左前安打され、間柴は二死一、二塁でKO。打者27人、投球数103球。2人目の高橋直樹投手(現西武)も一番・平野光泰中堅手を四球、二番・永尾泰憲二塁手に左翼線二塁打されたため、間柴は失点6、自責点4で負け投手になった。
 なぜ勝てる試合を逆転負けしたのか。その夜、間柴は考えに考える。とくに逆転された六回裏の試合展開を思い出してみる。
「おれは栗橋、梨田、羽田、吹石の泣きどころを1球ごとに攻めに攻めたはずだ。それがなぜKOされたのか——」
 考えても納得がいかない。球威が落ちたのかとも考えてみる。しかし投球数103球で球威の落ちるはずがない。翌日になってもわからない。シーズンが終わっても、なおわからない。
「あのような実感をカベにぶち当たるというのか」
 間柴はそう思い始めていた。それが1年たってみて、ちゃーんと答案用紙が書けたのである。
 昭和56年6月17日、後楽園球場で日本ハム対近鉄12回戦が行われた。この日こそ間柴茂有投手にとって生涯忘れられない試合となった。
 投球開眼といったらいいのか、投球極意をつかんだといったらいいのか、プロ12年生の間柴が「おれが探していたものはこれだった」と、ぶるぶると体をふるわせて感動するのである。
 間柴は一回表、一番平野を中飛、二番吹石を三ゴロ、三番・ハリス二塁手を二ゴロに料理した。気分をよくする材料はこれだけではない。日本ハムは二回裏二死後、三塁走者・柏原純一一塁手、二塁走者・ソレイタをおき、八番・大宮龍男捕手が中前安打、2対0とリードした。これで間柴は乗りに乗った。
 三回表、八番・有田修三捕手を三ゴロ、九番・藤瀬史朗右翼手を二ゴロ、一番平野を左飛に片づけた。間柴に電流のようなヒラメキが走ったのは、マウンドから一塁側ダグアウトへもどる途中だったそうだ。
「ふっと気がついたら、たったいまの回に誰をアウトにしたのか、全然おぼえていないんです。つまり打者の名前なんか、どうでもよかった。もっと大胆にいえば打者の顔なんか見なくてもいいんです。大宮捕手の出すサイン通りに、大宮のミットめがけて投げている自分に気がついたんですね。相手は打者じゃない。大宮のミットなんだ。そう思った瞬間、これがピッチングの極意じゃないのかと思いまして——」(間柴茂有)
 男が大物になるか、小物のままで終わるかの差なんて、実は紙一枚の差ではないのか。1秒の何分の1という時間でひらめいたものを、自分のものにした男が大物になる。たとえひらめいても、逃がしてしまえば大物になれない。
 間柴は大宮のミットだけを標的に、打者の名前も顔も忘れてピッチングしている自分に気がつき、「これが極意か。これが探していたものか」とひらめいた。そして、そうとわかった以上、四回以後も大宮のミットだけを標的に投げに投げた。
 この心境から誰が左右どちらの打席に立とうとも、カカシだと思えばいい。要するに、相手は大宮のミットだから、本当の敵は打者ではなく自分のコントロールだという話になる。
 気がついたら九回二死後、五番羽田を右飛にとり、4対0で完投シャットアウト勝ちしていた。打者数32人、投球数116球、被安打5、与四球1、見事な内容である。
 さてその夜、間柴はなぜ1年前、近鉄に逆転KO負けしたのか、その理由がわかったと思った。
 前述した通り、昭和55年8月2日、平和台球場で近鉄対日本ハム4回戦が行われ、間柴は先発した。六回表、日ハムの攻撃が終わった時点でスコアは4対2、日本ハムがリードしていた。ところが六回裏、間柴は栗橋、羽田、吹石などに集中安打を打たれ、6対4と逆転されてしまう。
 なぜ六回に集中安打を打たれ逆転されたのか、自分では納得がいかない。この問題が一年越しに頭にこびりついていた。それがアイスクリームが溶けるように解けた。集中安打されたとき、間柴は加藤俊夫捕手(現大洋)のミットだけを標的にしていない。相手は打者であった。
「栗橋は内角が強いから、外角で勝負してみよう」
「吹石は内角ぎりぎりの速球でいけば、つまるのではないか」
 このように打者の泣きどころとの勝負に追われ、加藤のミットはまるで目に入らなかった。そこに落とし穴が待っていたと思う。
 昭和56年、4対0で近鉄に勝った勝ち星が、間柴にとっては“開幕5連勝”目だった。
「そうか、投手にはこういう勝ち方があったのか」
 そう思った間柴の前に、それから10連勝が待ち受け、御園生崇男投手、堀内恒夫投手の開幕13連勝を抜き、開幕15連勝の日本記録をつくった。それも間柴が1秒の何分の1という、一瞬のひらめきを自分の方に引き込んだからだと思う。
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