男のめぐりあわせなんて、不思議なものだと思う。左手首に受けた死球が、なんとそれから21日後、とんでもない日本新記録と結びつくのだから——。
昭和50年5月29日、中日球場(現在はナゴヤ球場)で中日対阪神8回戦が行われた。この日、三番・田淵幸一捕手(法大、当時阪神、のち西武─引退)は当たりに当たっていた。第1打席は左前安打、第2打席は右前安打、第3打席は左飛、第4打席は一ゴロ、そして九回一死後、問題の第5打席を迎えた。
カウント2─2後の5球目、鈴木孝政投手の内角速球を左手首に受けて退場、代走・笹本信二(現巨人)が出た。三塁側ダグアウトへもどってきた田淵はうらめしそうな表情で鈴木を振り返った。
「もし、これからの試合で、この左手首が痛み出したら、どうしてくれるんだよ」そういう顔つきである。
だが人間、冗談にもマネゴトにも、不服そうな顔つきをするものではない。田淵の場合、不服そうな顔つきが、実は本当になったのである。
2日後の31日、甲子園球場で阪神対大洋5回戦が行われた。試合前の打撃練習のとき、初球を三塁ゴロした田淵は、体中が恐ろしさのあまりゾッとした。
「左手首が痛さのため、まるで返らないんです。とても打てる状態ではないので、吉田義男監督に事情を話し、先発メンバーから外してもらったんです。とにかく打撃練習どころか、素振りさえできないんですから」(田淵幸一)
試合は谷村智啓投手(当時阪神、現阪急)と間柴茂有投手(当時大洋、現日本ハム)の先発で始まった。この時点の阪神は5月25日、ヤクルト7回戦に4対4の引き分けのあと、27日からの中日3連戦に11対9、8対1、8対5と3連敗し、全員しおれている。そこへ持ってきて、三番田淵が先発メンバーから外れたので、先取点も簡単に大洋にとられた。
六回表、大洋の攻撃が終わった時点で3対0、大洋が勝っている。それでも阪神は六回裏、二番・佐野仙好三塁手が左翼席本塁打、三番・池辺巌中堅手が左翼線二塁打、二死後、六番・相羽欣厚右翼手が左前安打、3対2と1点差に追い上げた。
さて、阪神の七回裏の攻撃は一死後、九番・安仁屋宗八投手に打順が回ってきた。走者はいない。ここで吉田監督は決断、球審・柏木敏夫に伝達した。
「安仁屋の代打田淵——」
それから田淵をよぶと耳打ちした。
「左手首は痛くて使えない。だから右脇をぴったりと締めて、外角球を右中間に流してみろよ」
初球カーブのストライク、2球目内角低めにストレートのストライク、3球目ボールのあと、間柴は4球目、外角にストレートを投げ込んできた。
「左手首には包帯がぐるぐる巻きしてあるので、バットを握る感覚がいつもと違うんですよね。それに左手首は痛くて返せないから、右腕一本でボールに対して一直線に当てた実感なんです。右腕一本ですから腕力なんていつもと比べると、せいぜい7割ぐらいでしたかねえ」(田淵幸一)
ところで、腕力70%でミートした打球はどうなったのか。45度の上昇角度で舞い上がり、左翼席中段に落ちる同点本塁打になった。
「私は法政時代、22本の本塁打を打ち、あの右腕一本で打った本塁打はプロ入り194本目なんですね。だから法政時代と通算すると216本目になるわけですが、この216本目でなんだか本塁打の極意をつかんだような気分でした」(田淵幸一)
腕力70%こそ本塁打の極意と見つけたり——この心境をつかむまで田淵は法政時代から、なんと216本の本塁打を打ちつづけたのだ。プロフェッショナルへの道とは、なんと遠く、なんと高く、なんとつらいものなのか。
阪神はこのあと一番・中村勝広二塁手、佐野、池辺が3連安打して4対3と逆転、3連敗でストップした。
ところで216本目の本塁打で極意をつかんだ田淵、それから19日後にその極意を生かし、王貞治一塁手(巨人)も真っ青という、本塁打をめぐる日本新記録をやってのけた。
昭和50年6月19日、中日球場で中日対阪神13回戦が行われた。田淵幸一捕手は、試合前から顔がひきつっていた。それにはちゃーんとした理由があった。もし、この試合で田淵が23号本塁打を打てば、昭和44年4月13日、甲子園球場での阪神対大洋3回戦の六回、池田重喜投手から第1号本塁打を打って以来、なんと通算200号本塁打になる。
だが、田淵が顔をひきつらしているのは、200号という区切りのいい数字ばかりではない。実は「200号達成プロ野球最短試合、最短打数」という記録がかかっていたからだ。
あの王でさえ、200号達成までに「870試合、2799打数」という時間をかけている。それなのに田淵がもし、この試合の第1打席で打ってしまえば、「714試合、2391打数」となり、王よりも156試合、408打数も速くやってのけた話になる。
「あの雲の上の王さんよりも、156試合、408打数も急ピッチなのか」
そう思っただけで、田淵は顔がひきつり体がふるえてくるのだ。
さて試合が始まった。四番田淵は第1打席、カウント2─1後の4球目、松本幸行投手のカーブを空振り三振、第2打席も2─3後の6球目、松本からまたカーブを空振り三振した。そして問題の七回表無死、第3打席が回ってきた。
「打席に入る前、ふっと思い出したんですよ。あの“デッドボール代打ホームラン”を——。あれでいかなくてはと思いましてねえ」(田淵幸一)
「バットを構えた位置からミートポイントまで、最短距離に、最少時間に——」
田淵はそれだけ考えて、松本の投球を待った。カウント2─2後の5球目、外角のカーブがきた。田淵のバットがすーっと動いた。打球はローン中堅手をはるかに越え、バックスクリーン左へ23号、通算200号本塁打した。同じ200号達成でも、王よりも406打数早く、試合数でもそれまでの200号スピード王、長池徳二右翼手(阪急)の797試合を83試合も抜いていた。
人間、死球までうまく取り入れてしまえば、幸せが待っているものである。