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運命を変えた一球24

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:福本豊 会話なき恩師との出会い 昭和47年12月下旬のある日、福本豊中堅手(大鉄高、阪急)は数十枚の年賀状を書いた。その中に
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福本豊 “会話なき恩師”との出会い
 
 昭和47年12月下旬のある日、福本豊中堅手(大鉄高、阪急)は数十枚の年賀状を書いた。その中にたった1枚だけ、他球団の現役選手の名前があった。広瀬叔功中堅手(南海)あてがそれである。
 なぜ、福本はこの47年12月から広瀬に年賀状を書き始めたのか。そのあたりを順を追って書いてみよう。
 福本が大鉄高3年生のとき、2年生に高橋二三男左翼手(のち西鉄)がいた。高橋は身長1メートル68、体重66キロ、なにからなにまでぴたり福本と同じの左打者。おまけに100メートル競走させたら、勝っても負けても福本とは胸ひとつの差しかない。
 そこで監督は弱った。福本と高橋、どちらをトップ打者にしていいか見当がつかない。しかし、できることなら2年生高橋をトップ打者、3年生福本を三番打者にしたいと考えていた。
「大鉄高時代から広瀬さんにあこがれてましてね。広瀬さんのようにトップ打者になって盗塁したいというのが夢でした。だからトップ打者にしてくれなかったら、野球部やめるといいまして。監督も参ったんでしょうね。私をトップ、高橋を三番にしました。もし私が大鉄高時代に三番打者だったら、打撃ばかりを考えて盗塁に対する姿勢、とらえ方もいまと違ってたと思いますよ」(福本豊)
 つまり福本にとっては、広瀬こそは“会話なき恩師”といってよかった。
 だが男の運命なんてわからないものだ。めぐりめぐって“会話なき恩師”の方から、話しかけてくるめぐり合わせになった。
 昭和46年5月20日、西宮球場で阪急対南海7回戦が行われた。先発は山田久志投手(阪急)と三浦清弘投手(南海)である。そして両チームのトップ打者は福本と広瀬だった。
 福本は一回裏、左前安打すると二番・阪本敏三遊撃手の2球目に盗塁した。そして阪本の右前安打でホームインした。そればかりではない。六回裏一死後、高橋里志投手から四球で歩くと、阪本の初球に二盗、2球目、三盗に成功した。
 試合は7対3で阪急が勝ち、福本は3打数1安打、2四球、2得点、3盗塁。酒に酔ったような気分で通路へ引きあげ、ひょいと通路の向こうを見ると、いままで勝負をしていた広瀬が手招きをしている。
 福本は何げなくそばへ歩いて行った。そしてここで聞いた広瀬の話が、福本にとっては一生忘れられないものになった。
 その広瀬と福本の会話を再現してみるとこうなる。
 広瀬「福本君、いまキミの3盗塁を見せてもらったよ。走力、スライディングとも、盗塁王にふさわしい見事なものだった」(昭和45年、福本は盗塁75個で初めて盗塁王になっている)
 福本「ありがとうございます」
 広瀬「ところでなあ福本君。キミは日本のタイ・カップ(デトロイト・タイガース、大リーグ生活24年間で通算盗塁892個を記録した左翼手。左打者)になる男だと思うから、先輩としてちょっとアドバイスをしておくよ」
 福本「はい」
 広瀬「うちの監督(野村克也捕手)は、とくに強肩というほどではない。そのうえ三浦も高橋里も走者のけん制があまりうまくない。しかも投球動作が大きい。さっきのキミを見ていると、楽なスタートで盗塁を成功させていた」
 福本「——─」
 広瀬「だけどなあ、福本君。きょうの盗塁で満足していてはダメだよ。もっとはっきりいえば、きょうのスタートでは、巨人が相手のときは盗塁できないよ。もう1メートル、リードを大きくとらなければ——」
 広瀬のしゃべった時間は、ほんの30秒か40秒である。しかし、いうだけいうと、あとも振り返らずに、さっさと消えた。残された福本の胸に、湯のように熱いものがこみ上げてきた。
 広瀬といえば、昭和36年から連続5年間、盗塁王をやってのけた“盗塁の神様”である。その神様がわざわざ時間をさいて話してくれるのだ。福本は広瀬の背中に両手を合わせたい気持ちになった。
 だが、それから5カ月後、福本は本当に巨人を相手に冷たい脂汗をかくのである。
 昭和46年10月15日、後楽園球場で巨人─阪急の日本シリーズ第3戦が行われた。1対0とリードされていた巨人が、最終回二死後、三塁走者に柴田勲中堅手、一塁走者に長島茂雄三塁手をおき、四番・王貞治一塁手がカウント1─1後の3球目、山田久志投手の速球を右翼席に“逆転・サヨナラ本塁打”した、あのドラマチックな試合である。
 さて試合を離れ、話題を福本にしぼってみよう。
 阪急は五回表、八番・岡村幸治捕手が捕飛、九番山田が三振のあと、一番福本が四球で歩いた。だれが見たって盗塁する場面である。
 巨人のバッテリーは関本四十四投手─森昌彦捕手だ。福本は二番・阪本敏三遊撃手の2球目にスタートしたが、土井正三二塁手にタッチされてアウト。その瞬間、福本は5カ月前の広瀬の言葉を思い出し、「やっぱりなあ」と、こみあげてくるものがあった。
「キミは日本プロ球界のタイ・カップになる男だ。そのためには、もっとリードを工夫しなければダメだよ。いまのリードとスタートで南海から3盗塁できても、相手が巨人だと勝手は違うよ」
 この話を聞いたとき、福本はピンとこなかった。もっと本音を吐くと、相手が巨人でもどこでも、おれは走ってみせるという、甘くみたところがあった。
 しかし本番で巨人と勝負してみて、福本は冷たい脂汗を流した。だいいち、投手にクセを盗むスキがない。森の二塁送球はコントロールがいい。
「この巨人から盗塁するにはリードとスタートを研究する以外ないと、広瀬さんにいわれた言葉が実感としてわかりましてね」(福本豊)
 そう思った福本は日本シリーズが終わってから、どういう行動をとったのか。大阪市内にあるトレーニングセンターで水泳をやり始めた。筋力強化のためである。とくに瞬発的なスピードをつけるため、板につかまり、バタ足3000メートルを毎日くりかえした。
 それから投手に一塁けん制球を投げられたとき、すばやく一塁にもどるため、サイド・ステップもやり始めた。
「最初は20秒間にサイド・ステップが36回しかできなかったのに、最後は47回までできました」(福本豊)
 こういう筋力強化が、福本の盗塁とどのように結びついたというのか。
 福本は翌47年、なんと走りに走って106個の盗塁世界記録をやってのけ“世界の怪盗”というニックネームまでつけられた。これは1962年(昭和37年)モーリー・ウィルス二塁手(ドジャース)がつくった、当時の大リーグ盗塁記録104個を破るものだった。
 福本は大鉄高3年生のとき、当時、2年生高橋二三男左翼手とトップ打者争いをした。このときから福本は広瀬叔功にあこがれていたため、「トップ打者をやれないくらいなら野球部をやめる」といいだし、一番福本、三番高橋の打順がきまった。
 もし大鉄高時代、福本が三番打者だったら、盗塁への執着というか、取り組み方もまた、いまと違ったものになったのではないか。
 それやこれやで、昭和47年12月下旬のある日、福本は広瀬に心をこめて年賀状を書いた。福本が他球団現役選手に年賀状を出したのは、あとにも先にも、この広瀬ひとりしかいない。
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