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運命を変えた一球26

时间: 2019-05-09    进入日语论坛
核心提示:基満男 人生は綱わたりのドラマだ 人間の運命ほど不思議なものはない。昭和13年1月、池田潤之輔という18歳の若者が、故郷の北
(单词翻译:双击或拖选)
基満男 人生は綱わたりのドラマだ
 
 人間の運命ほど不思議なものはない。昭和13年1月、池田潤之輔という18歳の若者が、故郷の北海道厚田郡厚田村をあとに、上野駅のホームに降り立った。職を求めての上京だった。
 その潤之輔の前に高島部屋の若者頭と名乗る人物が現れた。
「北海道からじゃあ、30時間ぐらいかかったろう。ご苦労さん、ご苦労さん。さあ高島部屋へ行こうか」
 最初、潤之輔はなにがなにやら事情がのみこめない。立ち話、数分間でやっとわかった。この高島部屋の若者頭は、北海道からやってくるはずの力士志願の若者を上野駅まで出迎えにきた。そこで、その力士志願の若者と潤之輔を間違えたのだった。
 それなら若者頭と潤之輔はホームで別れたのか。そうではなかった。力士志願者が途中下車? して逃げてしまったのか、上野駅に現れなかったため、潤之輔が身代わりに高島部屋にやってきた。
 この潤之輔こそ、のちに幕内在位37場所、この間304勝151敗85休、勝率6割6分7厘、優勝1回を記録した第43代横綱吉葉山である。最初の予定通り力士志願者が上野駅に現れていたら、吉葉山は誕生していなかった。
 さて基満男二塁手(報徳学園、西鉄、現大洋)の場合も、なにやら事情が吉葉山と似ている。
 昭和42年3月17日、下関球場で大洋対西鉄オープン戦が行われた。その年、基は西鉄に入団した新人である。
 ところで試合前、基の打撃練習をじっと見ていた中西太監督が声をかけてきた。
「おい基。お前、二軍へ行け」
「——─」
「スイングのスピードが甘い。それではアマチュアだ。それでプロのスピードボールが打てると思うか」
「はい」
「この試合が終わったら、平和台へ帰れ」
 基は胃袋のあたりから悲しみがこみ上げてきた。「これで、この一年間は棒に振った」という思いである。
 だが、人間の運命とはわからない。それから数分後、中西監督がふるえ上がるような事故が起きた。打撃練習中のバーマ二塁手の右人差し指に投球が当たり、骨折したのである。
 バーマはその前年、三番打者として「試合数134、打率2割6分0厘、本塁打23、打点53」を記録、そう簡単に身代わりのいる二塁手ではない。でも骨折したのなら身代わりは数分前、平和台へ帰れとどなった基しかいない。
 かくて中西監督は、先発メンバーの八番打者に基を書き込んだ。これ以外はないという仏頂面で——。
 二回二死後、八番基に打順が回ってきた。相手は東大出身プロ野球選手第1号の新治伸治投手だった。
「ボールカウントは1─2後の4球目だったと記憶しています。内角の速球でしたね。これをひっぱたくと左翼席本塁打なんですよ。新治さんもおどろいてたけれど、私もびっくりした」(基満男)
 わずか30分ほど前、「二軍だ、平和台だ」と、どなった中西監督が抱きかかえるようにして基を迎えた。
 この1本の本塁打で首脳部の基に対する評価ががらりと変わった。二軍どころか、バーマの骨折が治るまで二塁手のレギュラーポジションをあたえてみようという話になった。
 この年、基の公式記録を見ると、「試合数124、打数311、安打70、打率2割2分5厘、本塁打3、打点16、盗塁10、失策15」で二番打者・二塁手をつとめ上げている。そして骨折の治ったバーマは一塁手に転向している。
 くりかえすが、吉葉山は上野駅のホームで高島部屋の若者頭と出会わなければ、美男子の大男で一生を終わったかもしれない。基もあの下関球場のオープン戦で、新治から本塁打を打たなければ、間違いなく二軍落ちであった。それが紙一枚の差というか、綱わたりのめぐり合わせで、吉葉山は横綱になり、基はレギュラーをつかんだ。運命の底深さ、不思議さに私はぞっとする思いである。
 6球団を転々と渡り歩いた終身打率2割7分8厘の右打者がいた。ある夜、酒を飲みながら、その男は私にこんな話をしてくれた。
「新しい球団、つまり新しい職場に入っていくのは、つらいだろうって、よく新聞記者に質問されましたね。でも、私はちっとも苦痛ではなかった。新しい職場に行ったら、腰を低くしていればいいんですから。そしたら、みんないいますよ。“こんどきたあいつ、態度いいじゃないか”って。要するに最初のうち、だれかれかまわず頭を下げていればいいんです。
 ところが6球団目でふっと気がついた。入ってくるときは態度がいい。だから評判よくても、その球団をやめて出て行くときはケンカ腰じゃないか。いいかえれば人間新しい職場に入って行くときはやさしい。しかし、その職場のやめ方はむずかしい。こんど他球団に移る場合、納得のいくやめ方をしようと思ったら、6球団目を最後にクビになりましたよ」
 プロ野球は反射神経の天才的な大男がやっているのではない。人間がやっているというのは、ここらあたりなのだ。
 さて基満男という男、やたらに“最初”に強い。新治から本塁打を打ったのも最初なら、次に伝えるのもまた最初の話である。
 昭和54年、基は太平洋ク(現西武)から大洋に移籍した。6球団転々とした男と同じように、基もまた態度をよくしようとした。
 たとえば54年1月中旬、横浜球場で行われた自主トレーニングに、なんと彼は6年ぶりに参加した。それまでの6年間、基はキャンプインしてから合同自主トレーニングでやるような基礎筋肉強化をしていた。しかも嘉代夫人、長男・雅宏君、二男・彰伸君を福岡においたまま、ひとり横浜のホテル住まいをしながら参加したのである。
 しかし基はただ態度がいいだけの移籍者ではなかった。
「おれの実力がどんなものか、おれの職人芸がどんなものか、大洋ナインに見せてやる」
 ぎらぎらした野心をそっとかくした移籍者だった。
 同年4月10日、横浜球場で大洋対広島1回戦が行われた。開幕日から雨にたたられ、これが開幕2試合目。そして本拠地横浜球場での最初の試合だった。
 基は四回無死、カウント1─2後の4球目、大野豊投手の速球を左翼席本塁打した。これは54年度における横浜球場第1号本塁打であった。
 これは余談だが53年に完成した横浜球場第1号本塁打は、4月5日、大洋対巨人2回戦の二回表、五番・柳田俊郎右翼手(巨人)が野村収投手(大洋、現阪神)から打った右翼席本塁打である。
 ところで基が54年度・横浜球場第1号を記録した2日後、つまり12日、同球場で大洋対広島3回戦が行われた。先発は平松政次投手(大洋)と福士敬章投手(広島)で始まった。
 二人のピッチングは理屈なしにすごい。平松が三回終了までに9人を料理、完全試合ペースなら、福士もまた三回終了時点まで、四番・マーチン右翼手を四球で歩かせただけである。そういう福士を基は四回一死後に叩いた。カウント1─1後の3球目、福士のシュートを左翼席本塁打したのである。
 この試合は2時間20分で終わっている。気がついたら平松は投げに投げ、九回無死、八番・水沼四郎捕手の代打・内田順三に右前安打されるまでノーヒットノーラン試合をつづけていた。内田に打たれたあともピタリと抑え、1対0で大洋は勝った。
「平松でシャットアウトし、私の本塁打1本で勝った。つまり私の実力を大洋全員に見せつけた試合なんです。移ってきた基満男という男の実力をはっきりと認識させた意味で忘れられませんねえ」(基満男)
 基はこの年、打率2割9分5厘、本塁打15、打点65をマーク。さらに翌55年には打率3割1分4厘、本塁打12、打点70を稼ぎ、年俸も34%アップの2260万円、平松を抜いて大洋NO・1にのし上がった。
 態度の悪い新入者は底が割れている。態度よく入ってくる男ほど本当は恐ろしいのである。
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